ようやく、アメリカでもパワーポイントを使うとバカになる、というまっとうな見解がでてきた。アメリカ人は浅はかなことが多いが、バカではない。
http://www.nytimes.com/2010/04/27/world/27powerpoint.html?emc=eta1
僕はIDATENのレクチャーとかで、パワポ(実際にはKeynote)を使わないことを実験したことがある。パワーポイントなくても十分に思いは伝わる。だが、「講演」であれば「パワーポイントがなければだめ」という前提が聴衆に強すぎて、これが受け入れられないことがある。
これはハンドアウトも同じ。ずっと前からハンドアウトは渡したくない、といっているのに「欲しい」と言われる。気持ちは分かるけど、ハンドアウトでこちらの言葉が伝わるのなら、わざわざ遠路はるばる現地に行って僕がしゃべる意味がないじゃない。ハンドアウトにメモ書きするために、僕が注釈をしゃべる、というスタイルは実につまらない。当然、目線は合わず、相手はずっと下を向いている。対話がない。
ついでに言うと、講演前に抄録を書いてくれ、といわれることも多いがこれも実は好きではない。おなじパワポを使っていても、実際には僕は相手を見て話をいつも変えている。相手を見ないと話が出来ないのだ。あらかじめしゃべる内容を規定することは難しいし、第一ネタばらしをしたらおもしろくないではないか。落語家も、高座に上がって相手を見てから何をしゃべるか決めるのである。ネタの予告なんてイレギュラーだ。本来はそういうものだと僕は思う。
文字にすると議論の質が落ち、知性の質が落ちる、という主張は古くからなされてきた。ソクラテスがそうである。稗田阿礼がそうであり、その「古事記」を消化し、紹介した本居宣長がそうであった。その宣長を紹介した小林秀雄も同意であった。彼のレクチャーでは、事物を、答えをすぐに求めたがり、答えを希求するのが学問や知性だという「物知り主義」につよい批判をあびせている。我が意を得たり、である。
文字のない社会の知性は決して低くない。これは学生時代読んだ川田順造から学んだことだし、彼の師匠のレヴィ・ストロースが看破したことでもあった。
講義や講演は丁々発止たる聴き手との「対話」だと僕は思う。だから、神戸大の講義でもパワーポイントはできるだけ使わない。学生の息吹を感じながら、こちらの魂をぶつけ、問いを立て続ける。教鞭をたれるのではなく、ダイアレクティクスをその場に求める。こういう大学の、大人の講義を教えてくれたのは学生時代の恩師だった。恩師はいま京都に住む。かれもまた、学生時代、小林秀雄に弟子入りしようと鎌倉の自宅まで押しかけた、という伝説的な武勇伝をもつ。あの知的講義は、当時ちんぷんかんぷんだったけれど、ようやく腹に収まってきた。ちんぷんかんぷんでも、よいのだ。
パワーポイントを使ってはダメ、ということはない。ただ、パワーポイントを使うのが普通、当然使う、何も考えずに使う、という思考停止状態が困るのだ。むしろ、「パワーポイントを使わないと伝えられないことって何?」という問いの立て直しをすべきであろう。驚くほど、それは少ないはずだ。僕らはパワポの無駄遣いをしすぎなのである。
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