昨日はFP試験の発表。学科試験、合格してました。数年前に実技試験合格、学科試験不合格(この季節に不合格なんて言葉を使いやがって、、、なんて「失敗を一切許容しない」無粋なことは言わないでくださいね、、、)で、そのままほったらかしていて、実技試験の時効(?)寸前になっていました。今回はシケベンに徹したので、あまりまっとうなお勉強をしたとは言えずそこは恥ずかしいのですが、まあ正直ほっとしました。お金の勉強したくて「手段」としてFPの勉強を始めたのに、試験が目的化していました。典型的な目的と手段の取り違えで、これもちょっとお恥ずかしい。
FPの勉強をしていて感じたのは、お金の世界は非常に広大で深淵だということ。もちろん、ファイナンシャルプラナーになったからといってお金持ちになる方法がわかるわけではない。でも、僕にまつわる年金だとか医療保険だとか税金とか、高額医療費制度とか為替だとか、そういった概念についてある程度の整理をすることができました。やっと入り口を垣間見たって感じです。医学部卒業した時期ってのはこのくらいの気分かなあ。
僕は自分の守備範囲以外の勉強をするのが大好きです。だから、FPの勉強もけっこうつらくも楽しかった。こないだ、ある基礎医学系の講演を聴く機会があったのですがとても面白かったです。もともと僕は基礎医学者になりたかったのですが、なりそこねてずるずる今でも臨床やっているのでした。最近の知見は失われてしまったけれど、基礎医学に対する親和性はとても強い。暇があれば研究したい細菌や真菌はあるけれど、臨床・教育が忙しすぎてとてもそっちには手が出せない。基礎医学も臨床医学も、片手間にマスターできるほど甘いものではない。
ときどき、臨床家の中には基礎医学や基礎医学者を低く見る人がいるけれど(またその逆もあるけれど)、それはもったいない話。自分の知らない世界に没頭している人を見ていると「へえええ」「ほおおお」と感心することは多いのです。また、他者の領域を垣間見ることで、自分のフィールドを振り返って、反省する(reflection)材料にもできます。新しいアイディアも浮かんできます。臨床家の要件の一つにしなやかさ、柔軟性、感性の豊かさがあると思いますが、自分にないものや自分の外にあるものを許容しない狭量さはむしろ臨床家の要件からずれているんじゃないかなあ。
よい料理人は食材を大事にします。もっと良い料理人は食材を提供した人たちに尊敬と感謝の気持ちを忘れません。この美味しい野菜を作った農家の方に、この美味しい魚を捕ってきた漁師の方に、この美味しいお肉を育てた畜産業の方に、敬意をしめすのが当然です。臨床家は手ぶらで仕事はできません。使う医療機器、処方する薬の一つ一つ、オーダーする検査全てに基礎医学者の息がかかっています。基礎医学者を低く見る臨床家というのは、食材作りに携わっている人たちを低く見る傲慢で鼻持ちならない料理人に等しいわけです。
大学にいる最大のメリットは、このような基礎医学者の方の言葉を直に聞けることです。普段聞いたことがないウイルス学のカッティングエッジな話とか。とても面白い。だいたい、人が魂こめて取っ組み合っている事物におもしろくないものなんて、ほとんどない。
ただ、日本の不幸としては、あるいは日本の感染症界の不幸としては、基礎医学と臨床医学の役割分担が上手にできていなかったことがあります。猟師さんが必ずしも優れたシェフとは限らないのです。シェフが畑仕事をしなければならない、というわけでもない(もちろん、やりたければやってもよい)。また、大学が露骨に基礎医学優遇で基礎医学以外を学問とは認識してこなかった(今もほとんどしていない)こと。それに対する臨床家の基礎医学に対する過度なルサンチマンが問題なのでしょう。たいていの問題はルサンチマンを原動力にしている。
でも、僕は大学において基礎医学が臨床医学に対して(いろんな意味で)優位に立っているのはバランスのとれた組織としてのある種の大人の知恵を感じます。臨床医学は臨床医学でいろいろ基礎医学にない恩恵を受けていますし。基礎医学そのものが勃興するの良いことです。基礎医学者が臨床家に対して優越感を感じるのも、僕は有りだと思う。基礎医学者が臨床家を縛り付けたりコントロールしようとしなければ。
僕は前に、「医師であれば博士号をとらねばならない、と決めつける必要はない」と書いたことがあり、「基礎医学軽視だ」とか「博士号にも良いところはある」などと反論されたことがあります。もちろん、博士号をとることには良いことがあるに決まっています。博士号をとるな、なんて主張しているわけではない。ただ、博士号取得が絶対的な価値となり、脅迫的な価値となり、そしてルーチンとなるとき、例外を認められないとき、そういう世界は窮屈でしなやかさを欠いている、という話なのです。とりたい人はとり、とりたくなければとらない、でよいではないか。自分の採用したオプションを絶対視し、採用しなかったオプションに対してルサンチマンを抱く必要がどこにある?
他人の幸福が自分の不幸、というメンタリティーが大嫌いです。他人が自分をどう思おうとそれは勝手で、こちらの知ったことではない。他人が自分より優位に立つのも、全然OK。他者に認められるのは本質的に困難だし、それは希求しても仕方がない。ただ、邪魔されたり足を引っ張られるのは、ごめん被りたい。他人の足を引っ張ることに異常な幸福を覚える寂しい人たちが多すぎるのが、ちとうっとうしい。
内田樹さんと釈徹舟さんの「現代霊性論」を読んでいます。宗教とかスピリチュアリティーについてあまり考えてこなかったのですが、いろいろ納得、おおっという本です。
ここで、ちょっと魂に響いたくだりがありました。内田さんが、六曜、仏滅とか大安とか、そういったカレンダーの表記を「宗教的なものを地方の自治体が公費を使っていいのか、けしからん」と抗議して、そのためある市がカレンダーを全部回収した、という話を聞いたエピソード。
「僕はその新聞記事を読んだとき、かなり激怒しましたね。その抗議した市民に言ってやりたい。じゃあ、あなたはカレンダーに曜日が印刷されていることにも反対するのか、と。だって、七日に一日安息日を設けるというのは、ユダヤ=キリスト教の定めた戒律ですからね。その人が自分の家のカレンダーを「曜日のないカレンダー」にしているというのなら、話はわかる。子どもの通う学校や、自分の勤め先に「日曜日に休むのは宗教儀礼でおかしいじゃないか。教育やビジネスに宗教を持ち込んでいいのか」と主張して、日曜も休まず出勤して断固闘っているというのなら、話はわかる。でも、自分はそんなことしていないわけでしょう。自分が現実に生活している場所での宗教儀礼は見過ごしておいて、関係ない他人の宗教儀礼に文句をつけるというのでは、ものの理屈が通らないでしょ。僕、こういう半ちくなこと言う人間が虫酸が走るほど嫌いなんです」
僕も、虫酸が走るほど嫌い。こういう屁のついた理屈を言って自分の価値観・世界観を他人に押しつけ、強要しないと気が済まない人たちには本当に辟易します。自分の価値観、世界観が価値観、世界観の全てだと信じて疑わない人たちに辟易します。そもそも、何かを信じて疑わない人たちに辟易します。周りは下手すると、そういう世界観の押しつけたる平等思想に縛られている人があまりに多いですが、感性の問題として、こういうのがとても我慢できない。その感受性のなさに我慢できない。
本書はこのように続きます。本当に我が意を得たり、です。
「前に大峰山という女人禁制のところに、性同一障害の人たちが入山をこころみたという事件がありましたでしょう。性差別反対を掲げて。女人禁制が得意なローカル・ルールであって、一般性がないというのは指摘の通りなんです。でも、そういうローカル・ルールは非合理的だから撤廃しろと主張している人たちご自身は、性同一障害の人たちなわけですよね。「自分たちの性の特異なありようを認めろ」と、「強制的異性愛体制で全員を標準化、規格化するな」という主張をしている人たちが、なぜ大峰山の人たちの「宗教の特異なありよう」は認められないと言えるのか。なぜ、「性に関する政治的に正しい」一般ルールに従わないものには存在を許さないと言えるのか。彼らは自分の特異性には配慮を要求し、他人の特異性には権利を認めない。自分の論理矛盾に気づかずにいられるその愚鈍さが、どうにも僕には耐えられない」
「私には人間世界の仕組みが全てわかっていて、それを合理的に説明できる。だから、私に説明できないものは存在する必要がないもの、存在するべきではないものだ、という傲慢さに僕は我慢がならないんです。」
医療・医学の世界にも、善意を持ったテロリスト的、不寛容で「傲慢」な人たちは多いです。医療・医学の世界だから、善意を持っているからこそ多いのかもしれません。学生時代に「イントレランス」というグリフィスの映画に感動したのを、ふと思い出しました。あのころから、僕はこうした不寛容に生理的な嫌悪を覚えます。
今日は、広島の集中治療医学会で、ICUと感染症とチーム医療の話をします。他者を尊重せよ、足の引っ張り合いはやめんかい、自分の立場ばかり言うな、高い見地から考えよ、ビジョンを持て、理想を抱け、現状に満足するな、目的と手段を取り違えるな、いい年したおっさんやおばさんは年相応にもっと大人になれよ、という話をします。良かったら聞いてください。
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