これは、どこか別のところでも書いたのだけど、GIOとSBOはもう無理なので、止めた方がよいと思っています。日本以外では使ってないし。
Bloomのtaxonomyも一つのモデルに過ぎないのに、そういうものが提唱されてしまうと神の啓示か何かのように絶対化してしまうのが日本の学者の悪いところで、これは社会学でも心理学でも哲学でもよく見る光景です。他人にはreflective learnerになれと言っている当の本人が一番reflectionできていないという、一番ダメなパターンです。
分類というのは所詮恣意的なものに過ぎず、技術的なものに過ぎません。ある技術の枠組みでの分類は、その分類に親和性があり、慣れた人が上手にできる。ただそれだけの話です。ところが、これに長けた人が知らない人を貶め、知識格差を作る(いわゆるイヤらしいタイプの専門家になるワケですね)。自分で意図的に作った格差でもって長ったらしい講習会をコントロールする。そのくせ、「研修医に苦行を課してはいけない。我慢する研修は時代遅れだ」とか言う。指導医講習会が一番我慢を強いているくせに、よく言う。
何のために?がGIOたるものを設定する一番の動機でした。それは悪くない。でも、よく考えてみると、「何のために?」の問いはどんどん深化していきます。「患者のトリアージができる」でも、「なぜ」トリアージなの?という話になる。GIOはSBOに、SBOはGIOに容易に変化し、それはその当事者の問いの立て方によって変わります。だから、「これはGIOじゃなくてSBOじゃないの?」みたいなコメントには意味がないのです。
知識、技能、態度という使い古された分類も問題です。これも、さらっとそういうわけかたもありまっせ、程度に紹介する分にはありでしょうが、これが絶対的な断絶になると、「分類」とは何かという根源的な部分を全く理解しない形式知になってしまいます。
分類の本質は、こんな本を読むと分かります。
例えば、朝きちんと挨拶をする、というのは「態度」の問題と捉えられがちですが、なぜそのような態度に意味があるのか、と問うとそれは知識の問題になります。その挨拶が病院に病棟に何をもたらすのか?このような教え方の方がしっくりくる研修医もいます。要するに、その目標がどの領域に当てはまるかは、その研修医の認識の仕方次第でしょう。研修医によって異なる認識のあり方を一様に定式化するところに、すでに無理がある。無理を通せば道理が引っ込む。所詮、このへんの知的遊戯は専門家の自己満足に過ぎないのです。自分たちがそれに耽溺して遊ぶ分には問題ないですが、それを新規の指導医に押しつけてうんざりさせるなんてカウンタープロダクティブな所行は絶対に避けるべきなのです。
今、茨城県の指導医講習会に勉強しにきています。さすがに前野先生のご企画だけあって、上記の「形式と実質の混同」「目的と手段のひっくり返し」が極力排除されており、こんなにビジョンの明確な指導医講習会は初めて見ました。とても勉強になりました。カンボジア、千葉、東京、島根、富山、茨城と暑いところ寒いところ動き回って風邪引いちゃいましたが、、、、
今月末は神戸大で指導医講習会です。メンバー一新で再構築。全然洗練され得ていなくても良い。専門用語も皆無でよいから、参加者が「研修医教えるのも悪くないな。楽しそうだな」と前向きになっていただけることを目標にしたいです。そのために、コンテンツはどうあるべきか。
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。