亀田大毅が世界チャンピオンになりました。試合は見れませんでしたが。
このことでいくつか考えている事があります。
・公人無制限に罵倒してもかまわない、という「常識」はどのようにしてできたのか
・メンタルストレングスは涵養可能か
の2点です。
さて、亀田が内藤に反則を繰り返し、敗れたときに自分が書いたものを読み返し、反芻し、そのことについて言及したメディアは皆無だと思います。ブロガー、掲示板の書き込み、当時はツイッターはなかったっけ、、、もないでしょう。
亀田はまだナイーブな若者だった訳ですが、彼のミステイクはミステイクとして、それをボコボコに嬲る権利はどこから与えられたものでしょうか。僕はそれをずっと考えてみました。失敗は失敗、愚行は愚行。でも、それを無制限に罵倒する権利が「有名人である」という理由を根拠に正当化されるのはタブロイドを持つ世界中に普遍的な「常識」ですが、本当にそれでよいのでしょうか。彼が例えば、ストレス障害やPTSDになった場合、誰が責任をとってくれるというのでしょう。
僕は、誰にもそんな権利はないと思います。たとえ有名人であっても、建設的な批判を越えた罵倒は寛容してはならないと思います。そんな権利は、メディアにも一般人にも、ない。それに、それは罵倒する側の品格も落とす行為です。
僕は前に、岡田監督は更迭されるべきだ、と書きました。でもこれは単純にアクションの問題であって、純粋に監督としての能力の問題です。彼の人格を貶めたり(とても高潔な人物である事は現役選手の時代からずっと感じていました)、ましてや家族に嫌がらせの電話をするなんて品のない事はしてはならないのです。これはあくまで品格の問題。
人間にはだれにも品格あるところと下品なところがありますが、最近のツールはこの品格を落とす属性を持っています。匿名性のないメールにもフレーミングの問題があり、匿名性が(も)ある2ちゃんねるやツイッター、ブログになるとなおさらです。そこでなされるコメントの正否の問題より、品のなさを僕は問題にしたいなあ。
さて、あれだけ「見知らぬ人たち」にボコボコに嬲られた亀田ですが、本来なら人前に二度と姿を見せたくなかったのかもしれません。見事に立ち上がって世界チャンピオンになったそのメンタルストレングスには驚嘆するばかりです。
ではメンタルストレングスは涵養できるか?
さいきん、研修医が萎縮すると行けないから、指導医は優しく教えてあげないといけない、というのが「常識」となっています。このことに特に異を唱えるつもりはありません。
しかし、医者になった以上、いくら指導医が天使のように優しくても「萎縮したくなるような」ことはしょっちゅう起きます。モンスターペイシェントに理不尽に怒鳴られ、ナースに嫌みを言われ、訴訟でも起きれば(その正否にかかわらず)見知らぬ人からボコられる。血にも汚物にもひるんではならない。
そして、自分がケアしていた患者はときに(そしていつか必ず)死ぬ。人が死ぬのを見ているのはつらい、といっては医者やってられない。
研修医のメンタルヘルスは基本的に予防的です。うつにならないよう事前にケアしてあげる、みたいな。
でも、プロ野球の選手が、「もし当番に失敗してファンに怒鳴られると選手が萎縮すると行けないから、マウンドに上げるのは止めよう」なんてわけにはいかないでしょう?
萎縮してはいけない、と腫れ物に触るようにそのことをタブー視しても現実は変える事ができません。ちょっとやそっとのことではへこたれないメンタルストレングスの涵養は必須ですが、そういう体育会系の臭いのする教養、常識は(繊細な方の多いからだと僕は想像するのですが)医学教育界では鼻つまみ者です。
ウイリアム・オスラーは「平静の心」を説きました。日野原先生もこの言葉を述べています。では、平静の心はナチュラルに得られた人にしか与えられないのでしょうか。それとも育てる事ができるのでしょうか。もし平静の心が医師にとって必携のアイテムであるとすれば、それを持たず、育てる事もできない場合はどうしたらよいのでしょう。ただただ、その場の不都合を見て見ぬをしてごまかすだけなのでしょうか。
僕は、研修医や学生のメンタルストレングスの涵養は必須だと思うのです。でも、どうやってそれを行うのかは僕には分からない。だれか教えてほしいと思っています。
でも、なぜかそのようなことを言う人はいないのでした。不思議というか、まあそりゃそうか、というか。
あ、それで思い出した。最近思っているのですが、じつは教育という領域はアメリカの真似をあまりしてはいけないと思っています。それは、アウトカムがでていないから。
建前上は「涵養する」教育ですが、アメリカは基本、「育ててのばす」のではなく、「伸びる人を採用する」セレクションが基本です。日本もそうだと言われるかもしれませんが、日本はそこまで厳しくない。大学に入ってしまえば、できるだけドロップアウトのないようにボトムアップを一所懸命にやるのが日本のやり方です(場合によってはトップを引きずり下ろそうともしますが)。アメリカは、単に伸びる人をセレクトするだけで、プアパフォーマーは育てる前に捨ててしまうのが基本です。だから、アメリカの高名な医学教育学者が、「学生が萎縮しないよう褒めて育てよう」と声高にいった直後に、「プアな学生をいかに正確に見つけて落とすか」なんて話題を平気で、何のためらいもなくするのでした。しかられるより落とされる方がショックだと思うけどね、僕は。そういうところは気にしないのでした。
日本の教育者は一所懸命に育てようとします。社会に出たら、総括的評価というのもたてまえで、実は形成的評価です。うそだというなら、プアパフォーマーだからという理由で研修終了できなかった人を教えてほしい。それは極めて稀で、病気になったりドロップアウトしない限りは、日本では落伍しない。医局文化の名残なのかもしれませんが、落伍するのは国家試験まで。出世はしないが、クビにはならないのが原則です。(あくまで相対的な話をしています)。
アメリカでは進級できない研修医はそんなに珍しくはないし、クビになった人も僕は知っています。きほん、できなければ切る、の文化なのです。それが悪い、というわけでもないのですが、好悪の観点で言うと僕はこういう文化は好きではない。それよりなにより、本音と建て前の乖離というダブルスタンダードが、品格という観点からはイヤらしくて、いやだなあ。
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