こないだの会議で提出した論考です。ご一読ください。
国民全員にワクチンを 岩田健太郎 神戸大学感染症内科 2009年11月10日
予測によると、成人換算で入手可能なインフルエンザH1N1ワクチンは「2回接種」換算で7700万人程度(1億5400万回分)と見積もられています(10月1日厚労省「基本方針」より)。
10mlバイアルは18人分という計算だそうですから、ある程度の誤差はあるでしょう。廃棄が多ければより少なく、インスリンシリンジなどを用いて工夫したらもっと多くの方に接種できるかもしれません。小児の場合は接種量が少ないですから、それも勘案できるでしょう。
不特定な要素をいくら議論しても仕方ありませんが、おおざっぱに言えば現段階でほぼはっきり言えることがあります。それは、1回接種を原則とすれば、ほぼ日本国民全員にこのワクチンを提供できるであろう、ということです。
結論から申し上げます。私はこの時点で、「重症化を防ぐために」政府がたてた目標である「ワクチンが必要な人数」5400万人という数字を放棄することを提案します。そして、「希望すれば」国民全員にこのワクチンが提供される体制に転換することを望みます。また、そのゴールを達成するための「戦略的な見地から」予防接種回数を「原則」1回とすることを提案します。例外として6ヶ月から9歳までの小児を2回接種の対象とする。要するに、私個人の見解も以前のもの(1回か2回かはデータを見て決めるべき)という見解から変じているということです。
ではなぜ、今方針転換を必要とするのでしょう。
もともと、私は(物理的に可能であれば)国民全員にワクチンが提供できる体制が望ましいと主張してきました。5400万人という人数に絞るという方策には科学的な根拠が乏しいです。米国を始め多くの国ではpriority listこそ作っていますが、基本的には希望すれば国民全員(正確には住民全員)にワクチンが提供できる体制をゴールとしています(1, 2)。また、その理由には「集団感染の防止」という目標が(他の目標同様)明快に掲げられています。たとえば、季節性インフルエンザワクチンの医療従事者への予防接種の目的には、「感染を減少させること」もその目的として明記されています(Vaccination of HCP reduces transmission of influenza in health-care settings) (3)。日本のそれだけが、頑迷に「重症化を防ぐ」ことのみに執心しています。
季節性インフルエンザワクチンが他人への感染性を減らしたり、集団感染予防に役立つだろうことを「示唆する」論文は多々あります。米国では学童への経鼻生ワクチンが家庭内感染を予防するというスタディーが発表されています(4)。不活化ワクチンについても同様の結果が出ています(5)。我が国のデータでも小児へのインフルエンザワクチンがherd immunityを成し、流行を防ぎ、高齢者の死亡を減らすことが示唆されています(6)。この研究は専門家委員会の田代先生も参加されたものです。我が国では前橋リポートのみがことさらにとりざたされますが、ある研究のみ注目して他の研究は黙殺する、という態度は科学的ではありません。EBM(Evidence based medicine)の概念の無かった時代の前橋リポートは、アウトカムの設定などにいくつかの重要な問題点があります。例えば、後生の論文と比較し、高齢者のハードアウトカムなどが吟味されていません (7)。科学的議論とは、ある論文と別の論文に対して同じ透徹した視線で吟味することを言います。ある学説を支持する論文はことさらに取り上げ、そうでない論文はこき下ろすという態度は許されてはいけません。
新型インフルエンザについても、最新の研究ではワクチンは感染性を減らすという前提で議論が成されています(8)。西浦と私が提出した論文では、herd immunityのあるなしでシミュレーションしていますが、herd immunityが無いと仮定した場合でも1回接種で倍の人数にワクチンを提供した方が2回接種で半数の接種をした場合よりも有症状者は減ることが示唆され、もしherd immunityがある場合でも、1回接種の効果が2回接種の効果の50%以下でない限り(そのようなシナリオは理論的にはかなり考えづらいですが)、やはり1回接種で倍数接種の方が利益が大きいことが示されています(9)。
もちろん、このようなデータは大規模ランダム化試験などを経由したハードなエビデンスではありません。しかし、それをいうなら、新型インフルエンザワクチンに関して政府の言う「重症化を防ぐ」というエビデンスは皆無です。それを「示唆する」臨床データすら存在しません。季節性にしても、重症化や死亡を減らすというエビデンスは高齢者主体で(10, 11)、新型インフルエンザ患者の最大のポピュレーションである若年者に対してはそのエビデンスは希薄なのです(12)。これは当然のことであって、若年者におけるインフルエンザは(季節性、新型共に)基本的には自然軽快する疾患です。もともと死ににくい病気の死亡率をさらに下げるというのは非常に困難です。だから、若年者に対してワクチンはefficacy(おおざっぱに訳すと理論的な効果)こそ高いがeffectiveness(おおざっぱに訳すと現場での効果)が低く、高齢者についてはその逆なのです。
前述の厚労省資料には、「インフルエンザワクチンは、重症化等の防止については、一定の効果が期待」「感染防止の効果は、保証されていない」と記載されています。
これには論理的、本質的な誤謬があります。そもそも、「期待」と「保証」は背反する概念ではありません。期待しつつも保証できないものだってあり、またその逆も真だからです。新型インフルエンザワクチンが、まさにそうです。このワクチンについていろいろなことを「期待」することは可能でしょう。重症化も、感染防止も、「期待」はできます。しかし、抗体価の測定のみでクリニカルなデータが(正当な事情あってのことですが)皆無な状態では、何の保証もありません。一方(重症化の防止)については勝手に期待し、他方(感染防止)については「保証できない」と断罪する。非科学的な議論がここに展開されています。全てのアジェンダは、等しい眼差しで見据えなければならないのに、こなたそなたでダブルスタンダードを用いているのです。
ここで誤解してもらっては困るのは、私はかつてのような(実質上)強制性を伴う集団接種を主張しているのではないということです。また、私は1回打ちと2回打ちのどちらが(いろいろなパラメターから)より有効か、という点を議論しているわけでもありません。
私が主張しているのは、我が国で入手できる1億5400万回分程度のワクチンを、まずは1回接種に用いた方がより戦略的に運用できる、という点です。そして、もしワクチンが(接種希望者が少ないなどで)余ったり、さらなる生産体制や輸入体制が整ったら(必要に応じて)追加接種をすればよいのです。一般的に、追加予防接種の間隔が延びることはその効果を減じません(13)。必ずしも4週間後に接種と決めつける必要はないのです。1回打ちでも2回打ちでも必ず「1回目」は必要です。「どちらが正しいか」を議論するのではなく、「まずは1回打ってから議論しましょう。データを集めましょう」という戦略的態度を提案しているのです。
国民全員に提供できるワクチンがあれば、現場は大変助かります。小児に対する接種を前倒ししたことは英断ですが、小学校高学年以上にもできるだけ早く接種すべきです。また、基礎疾患の「優先」「最優先」を厳密に区別する作業そのものが現場を混乱させ、困難を与えています。最優先者を集め優先者を後回しにして10mlバイアルが無意味に破棄されるリスクも検討しなくてはなりません。最優先者、優先者の区別は緩やかにし、臨機応変に接種できるほうが現場は助かるでしょう。その方法を担保するのは、ワクチンの「数」です。
すでに前回の会合で主張したように、なすべきは「東京駅のタクシー乗り場」であり、「ノアの方舟」ではありません。全員が接種できることが担保できていれば、あとは「どちらが先」という相対的な問題になります。しかし、「接種できるか、できないか」という絶対的、切り捨ての論理が出てくると問題です。新型インフル患者を診察する医療者と、その医療事務を取り扱う事務職員では、どちらも院内感染のリスクを持っています。前者が優先され、後者が無視されるのでは現場のルサンチマンは避けられません。それは、絶対的にワクチンが足りない、という前提であれば容認せざるを得ない問題かもしれませんが、1回接種の戦略はこの前提を覆します。
本日閲覧した厚労省の資料では、入院患者数は通算5072人。そのうち基礎疾患を持たない者は60%以上です。彼らを守らなければなりません。年齢別で見ると、約60%は1歳から9歳の小児で、約25%は10-19歳の青少年です。彼らを守らねばなりません。他方、死亡「率」が高いのは成人です(14)。こちらもやはり大事です。
つまり、守らなくてもよい人なんていないのです。
厚労省はワクチン接種の目的を「死亡者や重症者の発生を減らし」「患者が集中発生することによる医療機関の混乱を防ぐ」としています。その目的に照らし合わせて、ワクチン接種が「必要ない」人物はいません。そして、すでに医療機関は大いに混乱しています。
以上で私の論考を終わります。賢明な専門家の方々の忌憚のないご意見をお願いしたいと思います。
1. CDC. Questions & Answers 2009 H1N1Influenza Vaccine. http://www.cdc.gov/h1n1flu/vaccination/public/vaccination_qa_pub.htm
2. Use of Influenza A (H1N1) 2009 Monovalent Vaccine
Recommendations of the Advisory Committee on Immunization Practices (ACIP), 2009. MMWR. 2009;58(Early Release);1-8 http://www.cdc.gov/mmwr/preview/mmwrhtml/rr58e0821a1.htm
3. Influenza Vaccination of Health-Care Personnel
Recommendations of the Healthcare Infection Control Practices Advisory Committee (HICPAC) and the Advisory Committee on Immunization Practices (ACIP). MMWR , 2006; 55(RR02);1-16
4. King Jr JC, Stoddard JJ, Gaglani MJ, et al. Effectiveness of School-Based Influenza Vaccination. N Engl J Med 2006;355:2523-32.
5. Piedra PA, Gaglani MJ, Kozinetz CA, et al. Herd immunity in adults against influenza-related illnesses with use of the trivalent-live attenuated influenza vaccine (CAIV-T) in children. Vaccine. 18;23:1540-8.
6. Reichert TA, Sugaya N, Fedson DS et al. The Japanese Experience with Vaccinating Schoolchildren against Influenza. N Engl J Med 2001; 344:889-96.
7. 前橋市インフルエンザ研究班. ワクチン非接種地域におけるインフルエンザ流行状況. http://www.kangaeroo.net/D-maebashi.html
8. Khazeni N, Hutton DW, Garber AM, Effectiveness and Cost-Effectiveness of Vaccination Against Pandemic Influenza (H1N1) 2009 Ann Intern Med ; published ahead of print October 5, 2009, http://www.annals.org/content/early/2009/10/05/0003-4819-151-12-200912150-00156.abstract?sid=7d01fd66-599e-4f65-9143-ac700cec7107
9. Nishiura H, and Iwata K. A simple mathematical approach to deciding the dosage of vaccine against pandemic H1N1 influenza. Eurosurveillance, Volume 14, Issue 45, 12 November 2009 http://www.eurosurveillance.org/Default.aspx
10. Jefferson T, Rivetti D, Rivetti A et al. Efficacy and effectiveness of influenza vaccines in elderly people: a systematic review. Lancet 2005;366:1165-74.
11. Nichol KL, Nordin JD, Nelson DB, et al. Effectiveness of influenza vaccine in the community-dwelling elderly. N Engl J Med. 2007;357:1373-81.
12. Breese C. Influenza vaccination in children. UpToDate 17.2. last updated June 10, 2009. www.uptodate.com
13. AAP. Redbook 28th edition.
14. Louie JK, MD, Acosta M, Winter K, et al. Factors Associated With Death or Hospitalization Due to Pandemic 2009 Influenza A(H1N1) Infection in California. JAMA. 2009;302(17):1896-1902
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