以前から読みたいと思っていた「白衣のポケットの中 医師のプロフェッショナリズムを考える」を読みました。JIMに連載されていたものもちょろっと読んでいたので、それも思い出しました。
特に、事例ごとにまとめてあるので、「どういう状況でプロフェッショナリズムが問題になるか」を具体的に例示しており、観念論に陥りがちなこの議論をよりリアルなものに仕立てています。
その一方、本書の構成そのものが皮肉にも明示したプロフェッショナリズム議論の本質的な問題点もあきらかになってきました。
多くのエピソードでは、個人のがんばりではどうしようもない問題、医療崩壊やモンスターペイシェント、医療ミスや転院拒否、検査の強要などリアルな問題を扱っています。しかし、その解決案(まとめ)の多くはチームでのシステム整備や患者への情報提供、挙げ句の果ては医療制度の改善までがそのソリューションとして挙げられているのです。プロフェッショナリズムがテーマなのに、最初からプロフェッショナリズムを放棄しているようにすら見えることすらあります。
システムや制度の外部にあるのがプロフェッショナリズムです。制度化されたらそれは単なる「ルール、規則」に過ぎないのです。プロフェッショナリズムとは極めて自律的なものであり、それは周囲の困難が強烈であればあるほど必要とされます。周囲の困難がなければ、プロ意識なんて議論の対象にならないですしね。周囲の困難がプロフェッショナリズムを放棄させるのではなく、その逆なのです。
医師憲章を暗記してもプロフェッショナリズムとは呼べないし、それを教育したことにはならない。本書はそのように正当に看破しています。しかし、その医師憲章そのものは著者によってまるまる受け入れしたり、そうでなかったりと整合性は取れていません。錦織論文では、憲章は議論の土台であるべきだとし(37p)、宮田論文では「我が国でもこの定義を採用して施設内で共有するのがよいであろう」(210P)と割と丸呑みです。
プロフェッショナリズムが自律的で内省的で、そして内的な概念なのに、そもそも「プロとはこんなものだよ、こうあるべきだ」と外的に規定することが根本的に、本質的に矛盾している、という部分もわりとさらっと流されています。ここでも、できることが語られるのではなく、できないことを議論すべきなのでしょう。
37頁には「憲章」の引用でdialogueということばが用いられています。プロフェッショナリズムは例示できますが明示(定義)できません。プロフェッショナリズムは教えることがおそらく不可能で、語られるべき(dialogue)概念です。常に語り続けながら、あるべき姿を模索していくしかない、そういう概念であると思います。
僕は、だから憲章も議論の対象にすべきで「飲み込む」対象にするのはおかしいと思います。患者の福利優先は本当に正しいのか?正しいとすればどこまで正しいのか?本書で行われている議論は実は、「患者の福利優先、って本当に「基本」なの?というメッセージに満ちているのですが、そこはさらっと逃げられています。「医師は患者の自立性を尊重しなければならない」??本当ですか?「正直でなければならない」??僕は患者さんに嘘つかないと3日と持たないですよ。というか、嘘こそがぼくたちの日常のコミュニケーションをやっとこさ保持してくれているのです。「嘘をついていない自分」なんて、それこそ嘘だ。
だから、本書でも「答え」を提供している(あるいはしようと試みている)論文より、「問い」を提供している論文により共感を覚えました。尾藤論文(31p)のもやもやや、浅井、白浜論文がそうでした(196P)。語り続け、問い続ける。学問とはもともとそういうものでしょう。ソクラテスやプラトンの頃から。でも、日本の教育は「答え」を出すことに一所懸命すぎる。だから、安直な回答で満足しそこで思考停止に陥ってしまう、、、、
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