僕はほとんど全てのスポーツ観戦が好きですが、特に格闘技ではボクシングが好きです。レスリングやその派生した(僕にはよく分からない)あれこれは、ちょっと苦手。演出のあるアメリカの格闘技とかはほとんど嫌い。
それで、亀田興毅VS内藤大助の試合も当然テレビで観戦したのでした。
僕は、どちらの選手も好きですが、とくに亀田興毅は以前からのファンで、少しだけこちらをひいきにみていました。
内藤にしてみれば、亀田一家は厭わしい存在だったかもしれません。特に、前回の試合はよろしくなかった。
けれども、皮肉なことに、前回の反則試合があったからこそ地味な内藤は一躍世間の注目を集めることになったのでした。意図しなかったとはいえ、内藤が今あるのは間違いなく亀田一家のおかげなのです。
人間万事塞翁が馬とはこのことを言うのでしょう。
それで、無理矢理ですが、しばらく前から5月の検疫のことを考えています。僕は、検疫なんて完全に素人なので、これまで検疫のもつ意味や「その成果」については口を閉ざしてノーコメントでした。いまでも、特にコメントできることはありません。
ただ、今になって思い返すと、あのときの検疫騒ぎが今意図せぬところで活きているように思います。それは、もちろん検疫そのものがもつ目的ではないでしょうし、当事者も「狙っていた」わけではないでしょう。
あれだけ「過剰に」騒いだおかげで、日本ではついに感染症の本質的な議論を国民を巻き込んで行うことができるようになりました。MRSAでもAIDSでもO157でもSARSでもどうも尻切れトンボだった感染症対策ですが、政権交代もあいまって、そして圧倒的なネットの情報力というおかげもあって、これまでとは違う議論の力学が働いています。感染症界を大改善するよいチャンスでもあります。もし、アメリカのように「普通のインフルだから」みたいにさらっと前半戦を戦っていたら、今のような議論の盛り上がり方はなかったでしょう。あの「過剰反応」は不要の要だったのかもしれません。
まあ、何を持って「過剰」とするかは目的によって異なります。各人が異なるゴールを目的に定めていたら、議論は噛み合いません。当然、検疫は国内患者持ち込みを阻止できませんでした。そんなことできると思っていた人もいなかったでしょう。目標の立て方って大事です。
チェルシーにいたホセ・モウリーニョはプレミアを制したのに、解任されました。オーナーの目指すゴール、ビジョンに合致しなかったからです。サー・アレックス・ファーガソンは就任数年は鳴かず飛ばずでしたが、今や世界トップチームをこれだけ長く率いる監督はこの世にいません(後任が大変だけどね)。ゴールの立て方によって、優勝できなくても残留し、できても解任なのです。
長い間、日本の場合は、そもそもゴールやビジョンが皆無でした。このことだけでも、大進歩です。
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