ながいけれども、アランの「幸福論」より
激昂の段階を追って行くと、自分のからだをひっかくことよりもすぐれた動作は何もない。それは自分の苦痛を自分の意志で選びとることである。自分で自分に復讐することでもある。子どもはまず最初にこのやり方を試みる。泣いているからもっと泣き出す。自分の怒りにいらだち、慰められてたまるかと誓うことで心が慰められる。つまり、すねているのだ。自分の愛する人びとを苦しめて、そしてその自分を罰するためにさらにその人たちを苦しめる。自分を罰するためにあの人たちを罰するのである。無知であることを恥じると、もう何も読まないと誓う。頑なに強情を張りとおす。いきりたって咳をする。思い出の中にまで侮辱をさがす。自分で針をとがらす。悲劇役者の巧みさで傷つき辱めるようなことを、自分に向かって繰り返し独りごつ。最悪が真実だという原理で全てを解釈する。自分が悪い奴だと談ずるために悪い人たちを想定する。信じていないのに試みて、失敗したあと言う、「それに賭けるところだった。これがおれの運なのさ」と。どこに行ってもいやな顔をしてみせ、また人をいやがる。人のいやがることに専心しているくせに、気に入ってもらえないことに驚いている。眠れないとむきになって眠ろうとする。どんなよろこびでも疑う。どんなことにも憂鬱な顔をして文句をつける。自分の気分から不機嫌になる。そういう状態なのに、自分自身を評価する。「おれは臆病だ。不器用だ。もの忘れがひどい。年齢だ」と考える。自分ですっかり醜いすがたになって、自分の顔を鏡に見ている。これが気分の罠なのだ。
だからぼくは、「寒いな。身を切るようだ。これが健康にはいちばんだ」という人たちを軽蔑しないのである。なぜなら、これにまさる態度はないからだ。風が北東から吹いてくる時、両手をこすり合わせることは、二重の意味でよい。ここでは本能に生きることが知恵と同じ意味である。肉体の反応がわれわれによろこびを教えている。寒さに抵抗する方法はただ一つしかない。寒さをいいものだと考えることだ。よろこびの達人スピノザが言ったように、「からだが暖まったからよろこぶのではなく、私がよろこんでいるからからだが暖まるのだ」。したがって同じ考え方で、「うまく行ったからうれしいのではなく、自分がうれしいからうまく行ったのだ」といつも考えねばならない。どうしてもよろこびが欲しいというならば、まずよろこびを蓄えておきたまえ。いただく前に感謝したまえ。なぜなら、希望から求める理由が生まれ、吉兆から事が成就するのだから。だから、すべてのことがいい予感であり、吉兆である。「君がそれを欲するならば、カラスが君に告げているのはしあわせなのだ」とエピクテトスは言っている。そこから彼が言わんとするのは、何でもよろこびなさいというのではなく、とりわけ、ほんとうの希望はいっさいをリアルなよろこびとするということだ。ほんとうの希望は出来事を変えるからである。もし君が退屈な人と出会ったら、必ず彼は自分でも退屈しているのだが、まずほほ笑む必要がある。眠りたいと思ったら、眠りを信じたまえ。要するに、どんな人でもこの世に自分よりおそろしい敵は見つからないのである。ぼくは冒頭で一種の狂人のすがたを書いた。しかし、狂人とはわれわれの誤った考えが拡大したものにほかならない。ほんのわずかな気分の動きのなかにも、被害妄想の縮図があるのだ。この種の狂気は、われわれの反応を司っている神経器官の知覚されない病変のせいであることを、ぼくもたしかに否定しない。あらゆる刺戟はついに己が道を穿つにいたるものだ。ただし、狂人のなかにわれわれが学ぶべきものがあると、ぼくは考えている。あのおそるべき思い違いを、彼らはわれわれに拡大して見せてくれる。まるでルーペで見るように。この気の毒な人たちは自問自答をくり返し、悲劇を独演している。それは呪文だ。そこにはいつも効能がある。しかし、それはなぜなのか知りたまえ。
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