よく、「○○という可能性は否定できません」とか、「可能性はあります」と研修医がプレゼンします。しかし、この言葉には意味がありません。
可能性がある、といわれれば、大抵のことには可能性があるものです。明日隕石が落ちてきてみんな死んじゃう、、、、可能性はあるか?といわれればそうだけど、、、そんなことをいったらナンでも有りなので、思考停止に陥ってしまいます。これで検査漬け、薬漬けになるんですね。
明らかにグラム陰性菌の感染症が起きていると知っているのに、「万が一グラム陽性菌もからんでいるといけないから、バンコマイシンも併用」みたいなのが、「可能性は否定できず」がもたらす弊害です。もちろん、そういう世にも珍しい併存は日頃の行いが相当悪い人に何十年かに起きるかも知れない偶然ですが、偶然的事象は偶然的事象に過ぎず、それをいきなり考えるのは妥当ではありません。急性の事象が独立して次々と同時に起きるのは確率的に考えづらく、これがオッカムのカミソリです。
だいいち、それをいったら、「なんで真菌はカバーしなかったの?」「ウイルスは?」「原虫は?」みたいになってぐちゃぐちゃになってしまいます。可能性があるかないか、という議論が思考停止とぐちゃぐちゃをもたらすのは当然でしょう。
では、どう考えるか。「妥当性はあるか?」と考えればいいのです。可能性ではなく、妥当性。
例えば、午前中にある街で雑誌の万引き事件がありました。同じ日の午後、同じ街で3億円強盗があったとしましょう。そのときの3億円強盗の犯人と万引きの犯人が同一人物である可能性は?
もちろん、可能性はあります。でも、妥当性はどうでしょう。普通、しないですね。雑誌の万引き。そこで捕まったら計画していた3億円強盗もみんなパーですし。この、普通ないよね、しないよね、というのが妥当性の検証的考え方です。
妥当性の検証は、「普通に考える」訓練でもあります。普通に考えられないと臨床判断を誤ってしまうのです。だから、可能性ではなく、妥当性。
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