話はまだ続きます。次のテキストは同じ「通史」からの「薬害の顕在化」で、やはり執筆者は坂口志朗氏です。ここで、抗菌薬の歴史的な流れと「薬害」との絡みを考えます。
ペニシリンはヨーロッパで、アメリカで医療現場に驚愕をもたらしました。目の前の患者がどんどんよくなっていく、というので40年代の医師達はあからさまにパラダイムシフトを経験したのでした。そのはなしは、しました。
1950年代から、「感染症は終わった。次は成人病とその合併症だ」という気運が高まります。感染症は抗生物質の誕生と共にそのプライオリティをぐんと下げたのです。その一方、マーケットとしての抗生物質の地位は高くなる一方で製薬産業の基盤、商品のエース扱いになります。生産量も適応もどんどん増え、現在の「鼻水が出ても抗生物質」「二次感染の予防に(なんとなく)抗生物質」と無批判な適応拡大と乱用の温床となりました。かつては「死ぬ病気を治す奇跡の薬」でしたが、鼻水に劇的に効くわけもなく、そう言う意味では抗生物質は名実共にその相対的地位が失墜していったのです。かつて、(自由診療の頃)家を売ってペニシリンのバイアルを買った、などという逸話がありましたが、皆保険と高度成長の流れで、抗生物質はビタミン剤とほとんど変わらないまでに地位を落としてしまいました。
このころ、英米では統計学的手法を用いた薬効評価が確立してきます。ペニシリンのように「見れば分かる」薬効を発揮するような劇的な薬はそうそう現れるものではありません。降圧薬、コレステロールの薬、糖尿病の薬などは、たくさんの患者を集めてプラセボと比較して初めてその効果が分かるのです。
ところが、1950年代の日本の臨床医療界はお粗末でした。「三た論法」といわれる直感と経験を頼りにした評価、「使った、治った、効いた」という「三た」を用いた形式論法で薬を評価していたのです。これは、先の「カリニ肺炎に切り札」の1987年の新聞記事を思い返しても、ごく最近まで日本で通用していた論法ですし、現在でも臨床現場では「あの薬、切れが良いんだよね」的な評価で完結してしまう(現場の感覚が無意味と言っているのではありません。そこで完結してしまうのが問題なのです)土壌を残しています。このような安易な薬の評価は、後に「薬害」という日本医療界の鬼子を生み出す温床となりました。
また、ベビーブーマーで国民人口が増大し、日本で作られる製薬は国内で消費されるようになります。この頃、国内で作られた製薬が海外に輸出されることは皆無だったと聞きます。輸出を申請しても、ずさんな承認プロセスしか経てこなかった日本の薬は英米では相手にされなかったかもしれませんが。国内だけで使われる「ローカルルール」の普及、第三者から批判される経験を持たなかった日本の医療界の閉鎖性がここで大きく問題になります。日本で完結してしまうマーケットの問題は、例えば家電などの電気製品でも同様らしく、日本は家電のマーケットで韓国に大きく水を空けられてしまうのでした(これは、「社長 島耕作」で得た知識、、、)。あと、ここからは私見ですが、日本医療界の閉鎖性、内向性が逆に海外の製薬などに対する過度な閉鎖的態度と表裏の関係になったと思います。今でも海外で作られた予防接種は日本にほとんどはいってくることがありません。韓国が輸入した麻疹ワクチンで驚異的なスピードで麻疹撲滅をしたというのに、日本では手に入らない日本脳炎や狂犬病ワクチンを輸入するという選択肢を頭から否定し、国内で患者が出ても知らん顔の態度を決め込んだのでした。
日本では医薬品に対する物質特許を認めておらず、欧米で開発された医薬品の改良製造を行い、それで国内のマーケットを見たし、海外からの製品を否定し、国民無視の保護政策を行っていたようです。初期の自動車産業もこのような構造だったかもしれません。しかし、日本の自動車の方は海外に打って出ていく勝負に出て、今や米国のマーケットに真っ向勝負を挑んで勝てるくらいの実力を付けましたが、保護政策でぬくぬくと甘やかされた日本の製薬メーカーが海外とがちんこ勝負が出来るかどうかは、どうでしょうか。80年代からようやく日本産の薬も世界で勝負できるものもできてきました(FK506など)。過度に厳しい日本の製薬承認審査のおかげで、海外で先に商売しよう、という皮肉な流れがあったせいかもしれません。いずれにしても日本国民は全然恩恵を受けていない、、、、
医薬品は、一般の商品と違って欠陥や不良品が分かりません。目の前のワクチンや薬のバイアルが効果があるのか、ただの水なのか、それとも副作用や催奇形性があるなんて判断しようがありません。私が北京にいたとき、中国産の薬のcredibilityが大きな問題でしたが、1950年ー60年代の日本のクスリも同じような感じだったのではないでしょうか。
1950年代は、製薬の承認審査もすごく簡単で、数人の素人官僚による事務手続きだけで終わっていたそうです。これで、多くの薬が承認されたと言います。また、現場の医師は科学的検証教育を欠いてました。もっとも、今でも十分ではありませんが。ロンドン大学大学院では最初に「科学的な考え方とは何か」を学びますが、医学部や大学院でそのような根幹部分を学ぶことはなく、テクニカルな部分ばかりを学びます。だから、1950年代の日本の医師は、薬効と副作用のバランスなどもうまく検証できなかったようです。そして、技術料が低く、薬価だけが高いいびつな診療報酬体制の中で無批判無思慮な薬のばらまきが起きたのでした。
医療機関における薬の購入価格は引き下げられ、その為「薄利多売」の原理がまかり通り、コマーシャリズムの拡大によって患者も「薬好き」にされていったのもこの時代だと言います。この辺の事情は現代の米国医療と全く同じです。時代を隔てて妙なパラレルな構造が繰り返されるのですね。
このころ、精神障害者を対象に岩手の病院で抗ウイルス薬の人体実験が行われます。エピアジンというこの薬の副作用で2名の死者と十数名の重症副作用者が出て、人権軽視といった問題になります。この後、現在に至るまで臨床試験を忌み嫌う空気が日本にはありますが、この辺が遠因になっているようです。
さて、薬害の問題が顕在化したのが1956年のペニシリンショックです。尾高朝雄東大法学部長が抜歯後のペニシリン注射でショック死して、話題になりました。抗菌薬の皮内テストが義務化されるのもこうした経緯を受けてのことでした。
予防接種の副作用も問題になります。種痘などの予防接種で脳炎になった子供が増え、親たちが「全国予防接種事故予防推進会」を結成します。GHQ体制で予防接種が「強制接種」だったり、メーカーの市場確保といった邪な意図が隠れていたりと、いろいろ問題はあったようです。この辺も、現在の日本の予防接種システムの遅れの遠因かもしれません。
抗マラリア薬であるクロロキン。日本では関節リウマチやSLEに1957年から長期投与として使われるようになりました。ところが、1948年には米国で報告のあった眼障害のため、副作用に苦しむ患者が続出します。日本で学会報告が出たのが1962年。製造中止は1974年でした。当時2000人はいたというクロロキン眼障害の被害者ですが、ひどかったのは、当時の厚生省薬務局製薬科長が内服していたクロロキンを「内部情報」をもらって自分だけ服薬中止しており、かつこの情報を公表しなかったことでした。薬害エイズ事件で、官僚が実刑判決を受けて話題になり、問題になりましたが、このような役人こそが個人で実刑判決を受けるべき何じゃないでしょうか。
もっとも、クロロキンはマラリア治療薬としてはもっとも安全な薬とされています。短期で使えば問題ないのかもしれません。このへんの振り子の揺れ動きも日本の問題で、副作用が問題、となると全面拒否の方向に逆走します。サリドマイドもそうでした。
クロラムフェニコールの再生不良性貧血も、米国が副作用を問題にしてから、日本が対策を取るまで7年かかりました。
こうした流れで、サリドマイドやスモン事件が問題になり、1970年代から、日本の医薬品の審査・承認は極めて厳しくなります。その一方で、「副作用が出るくらいなら原疾患で死んでしまえ」的な本末転倒な副作用嫌悪主義もはびこるようになりました。もう一度、振り子を揺り動かして適度なバランスに持って行く必要があるように思います。
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