よく聞く教条的なフレーズには要注意です。それが普遍的に無批判的に普及していればいるほど、リスクも高まるようです。テレビで喧伝されるような「当然」と思われていることも、当然ではないかもしれません。このような頭の使い方で、一見観念的と思われがちな「哲学」が現場で活きてきます。
例えば、私たちの業界では最近、no blame, no shameということがよく言われます。叱ってしまうと「研修医たちがさらに情報を隠そうとするかも知れない」(日本内科学会雑誌2008;97:174-)から叱ることなく、褒めましょうね、という考え方で、よく米国で使われる技法です。なるほど、一見するともっともな意見ですし、そういう側面はあるかも知れません。
さて、ここでの「ほうれんそう」とは、ポパイの好きな、あのお野菜のことではなく、「報告、連絡、相談」のことです。研修医が情報を自分たちだけのプロパティーにしてしまい、指導医に伝えないとあとで困ったことになることがあります。「聞いてないよー」と指導医が嘆く一瞬です。研修医の一挙手一投足すべて監視することは物理的にも困難ですし、研修医だってやりづらいでしょう。しかし、ほったらかしで情報チェックをしないとときどきやばいことになるかもしれないのです。だから、報告、連絡、相談を十分にしてもらい、現場でのトラブルを回避しようとするのですね。
さて、ここに一人の研修医がいて、この「ほうれんそう」を怠ったとしましょう。患者に不都合が起き、例えば合併症が起きてしまったとしましょう。指導医がその情報をもっていれば簡単に回避できたであろうトラブルです。
さて、こういうとき、指導医は叱ってはいけないでしょうか。報告、連絡、相談を怠ったことが問題なのですから、それを叱責したとき、「報告、連絡、相談すること」を「隠す」という可能性は小さいと思います。なぜなら、もし「報告」を再び怠れば、さらなる叱責が待っていることは容易に想像できるはずだからです。むしろ、ここで下手に「褒めて」しまえば、「ほうれんそう」の重要性は研修医に認識されず、むしろまた同じ問題が起きてしまう「可能性」はあります(この、「可能性がある」という言葉はある種のオールマイティーカードで、使い方には要注意です。どんなときだって「可能性がある」といってしまえば、それまでで、それ故科学性に乏しい危険性があります。無謬であらゆる条件で使用できる言葉は、それ故に意味がないからです)。
したがって、叱ることが隠蔽のリスクを産んでしまう「がゆえに」叱ってはならない、no blameでいこう、という主張は、「ほうれんそう」問題においては「原理的に」適用することはできないのです。そして、この例外事項1つが原理的に確かであるため、すくなくともno blameは原理的に、全てのシチュエーションでは応用できないことになり、一般化も困難であるということになります。
私たち指導医は、no blameという言葉を聞いて無批判に飲み込んでしまうのではなく、他の全ての事物同様、no blameには原理的な制限limitationがあるので、使えるときと使えないときがあるよ、ということを理解しなくてはならないのです。
とまあ、哲学的なアプローチはこのように現場で応用することが可能です。常套句、常識を疑うとき哲学とはパワフルなツールだからです。
もっとも、上記のことは現場にどっぷり浸かっていれば直感的には「当たり前じゃん」という感じもしますね。褒めてばかりで指導なんて出来ないし、叱責したらいきなり隠蔽体質になる、と決めつけるのは、まるで「資本主義社会は必ず崩壊する」みたいなうさんくささを直感させます。でも、指導医講習会などに行くとno blameは大事、みたいな言説は山のように出てきます。それで指導医は現場の感覚との乖離を感じ、困難を覚えるわけです。
もう少し、この問題を続けましょう。オリンピックでは日本野球は散々な負け方をしてしまいました。国内ではがっかりしたり、怒ったりといろいろな反応があったようです。エラーが続いた選手もいました。随分落ち込んだと思います。
でも、オリンピックでエラーを続けたからといってプロの選手を辞めてしまうわけにはいきません。そうはいっても日本代表ですから自分のチームでは主力選手です。気持ちを切り替えて今日も明日もプレーしなくてはなりません。それがプロなのです。
人間、反省しなくてはならないことはたくさんありますが、スポーツのエラーみたいな事象はさっさと忘れた方がむしろプラスのようです。下手に反省会とかしてしまうと、余計なフラッシュバックが起きてあまりいいことはありません(だから、エラーが続いたのかも知れません、オリンピックでも)。
とはいえ、しばらくはこの選手への風当たりは厳しいと思います。相手チームサポーターからはきつーいヤジも飛んでくるでしょう。「○○選手の所へ打てば落としよるぞ!」くらいのことは言われそうです。
それでも、プロはプレーで応えるしかすべがないのですから、ヤジにも負けず、批判にも負けずプレーは続けなくてはいけません。
さて、何が言いたいかはだいたい伝わりましたでしょうか。no blameというのは結構大事なコンセプトで、医療現場でも応用可能です。特に未熟で緊張している初期研修医を教えるときは基本路線は褒めた方が有効なことが多いようです。
しかし、たとえ「指導医が」叱らなかったとしても、プロの現場は世知辛いのです。患者や家族からの苦情、ナースからの叱責から完全にフリーで医者を続けていくことは不可能です(そんなひと、いるかな)。その苦情や叱責も、ときに、いやしばしば理不尽だったりするものですが、それでめげずに毎日がんばっていくのがプロの医師です。また患者が重症化したり、死亡することもあります。これらはショックな出来事ですし、辛い気持ちになります。でも、だからといってその度に落ち込んで次の日から職場に来れない、なんて医師では現場で機能しないのです。このように、困難や苦境に打ち勝つメンタルストレングスは、プロの医療者には必須の要素です。
思うに、no blameとは、基本的にアマチュアの教育において有効な手法です。そろばんやフラダンスを習いに行ったら、毎日毎日褒め続けてあげればいい。どうせ失敗したってだれかに迷惑をかけるわけでもないし。
しかし、プロの世界は違うのです。批判や苦情は必ず受けますから、指導医にちょっと叱られたくらいで萎縮されても困るのです。そのようなメンタルトレーニングも含めての研修医教育です。それから、患者が重症になったり自分のミスで患者を悪くしたときは、がーんと落ち込んでしまう「べき」です。自分の患者が悪くなっても知らん顔、という無責任な医師は情操教育上よろしくないわけで、こういうときもがーんと叱ってやって構わないのです。これは、「忘れてしまう」べき、といううえの主張と矛盾するわけではありません。患者に申し訳ない、とどっぷり落ち込む感受性と、それを乗り越える精神の強さを両方持っていなくてはダメでしょう、という意味です。落ち込んで立ち上がれないほど弱くてはダメですし、かといって全然気にならない、というほど無神経でも困ると言うことです。
叱るか、褒めるかという二者択一の議論は、「ゆとりか、詰め込みか」というあの不毛な議論を思い起こさせます。そうではなく、あるべき議論は「どんなときに叱り」「どういう場面で褒めるか」というところだと私は思います。もっともこいつは本当に、本当に難しい問題なのですが。
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