内科学会と同時並行で行われているACP Japan Chapterの会合に参加した。やっぱ春は京都ですね。
「イクメンドクターは医療界を変えるか?」というタイトルをいただいたのだが、ぼく自身は自分をイクメンだとは認識していない。ま、いいんだけど。聖路加のG. Deshpande先生と1時間のセッションであった。英語のセッション久しぶりなので、かなり緊張してどこまで意を伝えられたかは、定かではない。
数日前、西條剛央さんと鼎談したとき、インタビュアーから「結婚とは何ですか」と問われた。西條さんは「それは相手に価値を与えることです」とおっしゃっていた。プロアクティブで「前のめり」な西條さんらしい回答だと思う。
僕は逆である。結婚とは「相手から何もかももらってしまう」、被贈与者の立場に立つことだと思う。なにもかも、僕は結婚によって妻から与えられる。例えば、「生きる理由」とか。与えられてばかりのポトラッチ状態なので、そのdebtは甚だしく、可能であればどんどんお返しをしなければ気が済まないメンタリティーになっている。2010年に妻が妊娠し、2011年3月に出産予定となったとき、その周囲でできるだけお手伝いしたいと思ったのは当然であった。
国立大学において育休をとることは制度的に可能である。だが、その場合はフルタイムのオフとなる。フルタイムのオフを僕の妻は望まなかった。少しは病院にいなければ、とも思ったであろうし、家にいつもいられても困る、と持て余していた所もあろう。というわけで、僕は定型的な育休をとるのを断念し、有給休暇を活用することにした。多くの医師のように、ぼくも有給を全然消化していなかった。これを機に、木曜日と金曜日は育児支援に充てた。
とはいえ、家にいる僕がどれほど役に立ったかというとはなはだ心もとない。むしろ、自分の「役立たず加減(uselessness)」を自覚する毎日であった。洗濯物を上下逆に干してしまい、料理はひっくり返し、掃除をすれば不適切な位置に不適切なものを配置して妻の叱責の原因となった。家庭にいるとは、自分がいかに役立たずであることを認識することである、自分がいかに役に立つか、なんて定型的なイクメン的思考は、よしたほうがよい。
2008年に神戸大に異動したとき、とにかくそのアトモスフィアを問題とした。それは、国立大学病院にありがちな、何かを提唱すると「ノー」とかえってくるメンタリティーであった。何を提案してもとりあえず「ノー」なのである。できない理由ばかりが返ってくる。
できない理由なんて、探せば何百万も見つかるのである。そんなもの探し出すことが不健全なのである。しかし、多くの大学病院は、この「とりあえずノーといっとけ」という病理にむしばまれている。
前任地の亀田総合病院は逆であった。とりあえずイエスというのである。そのための方法はあとから考える。方針としてイエス・ファースト、次いで方法論なのである。神戸大は逆であり、ノー・ファースト、「できない理由の言い訳」なのであった。神戸大では、何かをやるときは周りが同じことをやっているかどうかをやたらに気にする。特に阪大、京大がやっていることが必須である。なにをやるにしても「阪大も京大もやっています」がゴーサインのきっかけとなる。阪大、京大の動向がとても大事なのである。亀田は逆であった。「日本で他に誰もやっていません。いまやればうちが日本最初の事例となります」というのが病院長を説得する殺し文句だったのである。
神戸に異動してからの僕の仕事は、ほとんど毎日「ノー・ファースト」文化を「イエス・ファースト」に転じる作業であった。外来のあり方、カルテのあり方、書類のあり方、チーム医療のあり方、、、細かいことが大事である。とにかく毎日、毎日、ノーからイエスに、「できない理由」=言い訳から「できるための条件」にメンタリティーを変えていくのに全力を尽くした。
感染症内科という部内でもメンタリティーは大事であった。原則は「イエス・ファースト」である。研修医たちがプロアクティブに何かをやりたいといった場合、ぼくは「ノー」ということはほとんどない。国内外に研修に行きたい。イエス。研究をしたい。イエス。あれがしたい、これがしたい、イエス、である。海外に長期研修をすると、当然人員的にはマイナスになる。でも、「イエス」の方針をはっきりしておけばなんとかなるものである。業務は人が足りなくても工夫次第で何とかなることがほとんどである。なんとかならなければ、ルーチンの業務をカットダウンすれば良いのである。例えば、勉強会の数を減らすとか。
このようにノーを言わない文化を醸造することが大事であった。イエス・ファースト。こうすれば、朝保育園に子供を送る必要がある医師は出勤時間を遅らせる。家族の体調不良があれば、休ませる。勉強したければ、数週間研修させる。体調が悪い研修医がいれば休ませる。どういう状況でも、イエスを基調にやる文化、チーム構成ができていればそれが常態化する。そういう中での僕の育児休暇だったのだ。もちろん、問題ないわけである。
ぼくは有給を活用して、木金土日を育児・家事にあてたが、結局チームは問題なかった。ここでも自分のuselessnessを自覚した。結局、ぼくがいなくなっても世界は破滅せず、病院は破滅せず、感染症内科も破滅しない。なんとかなるものなのだ。「俺がいなけりゃ、、、」と思っている自尊心高い医者は多いが、そうでもないのだ。病欠含め、いなくなっても何とかなるものだ。
みずからのuselessnessへの自覚は大切だ。己の存在の重要性を膨張的に重要視すると、「おれがやらなきゃ」のエゴイズムでチームが動く。
他者へのまなざしも大事である。他者の幸福は「己の不幸」と同義ではない。しかし、多くの医者は「あいつはこんななのに、おれはなぜ」と「他者の幸福」と「己の不幸」を同一視したがる。ほっときゃいいじゃん。1週7日、1日24時間病院で働く医者がいてもよい。でも、週一で働く医者がいても良いのだ。他人と違うことにたいして寛容であること。他者の幸福を自分の幸福と捉え、それを不幸というねたみゴゴロに転化させないこと、、、こういう雰囲気の醸造も育児という背景には重要である。
時間の使い方も大事だ。ぼくは「一秒もムダに生きない」で時間の使い方について概説したが、とにかく日本の医者は時間の使い方が下手すぎる。しかも、他人の時間を支配しすぎる。教授会なんて最低で、本当に時間の無駄遣い、ムダ発言が多い。夜の10時過ぎまで議論して、「京大、阪大ではもっと遅くまで議論してます」なんてうそぶくバカ教授がいた。それは京大、阪大がアホなんです(ほんとに)。17時には会議を終わらせるくらいの見識がなければ、女性男性問題、育児問題も解決しない。もっともっと、日本の医療現場は時間を有効に使い、帰宅も早くできるドジョウはある。もっと工夫しろ。もっと既成概念、前提条件を疑いつづけろ。
二元論(dualism)もだめである。仕事と家庭、夫と妻、あなたとわたし、男と女、ワーク・ライフの二元論は、解決を生まない。その弁証法の先にある統一概念が大切である。相手より遅れていくこと、自分のuselessnessに自覚的であること。欧米的な自己self中心ではなく、配偶者中心に考えること、自らは遅れていくこと、behindであること、ゲマインシャフトからゲゼルシャフトという一意的な線形的世界観を是とするのではなく、ゲマインシャフトに回帰すること、、こういうことが大事なのである。
という話をしました。基本的には、レヴィナスの「遅れてくる人」の概念、ヘーゲルの弁証法がベースの話だったけど、時間も限られていてどこまで伝わったかおぼつかないです。
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。