チャリティー・シンポジウムはおかげさまで沢山のご応募をいただき、定員に達しました。したがってこれにて募集を締め切らせていただきます。ありがとうございました。当日はとっても面白いシンポジウムになると思うので、楽しみにしていてください。
ポジション・チェンジとサッカー的医療の話。
あちこちに日雇い労働者的に業務している。こういうのは割と楽しい。
被災地医療は野球とかアメフト的ではなく、サッカー的であるとつくづく思う。相手チームのあり方(医療環境や患者)と味方の陣営次第で自分に求められる役割は変わる。それも刻々と変わっていく。猫の目のように変わっていく状況の中では「指示」を待っていてはうまくいかない。
もちろん、指示は大事である。チーム・コンセプトや大方針を決めるのは監督(本部)であり、大方針にはきっちり従う。スタンド・プレーは厳禁である。
しかし、末端のプロフェッショナルが「言われたことしかできましえーん」「指示がないのでうごけまセーン」というのも困る。日々、状況が刻々と変わっていく医療現場のダイナミズムは普段の医療環境とは全く異なる。その変化に応じてその場その時に一番ふさわしいふるまいをする。「流れ」が大きく変わったと判断したら上にフィードバックをして大方針にも微調整を要請しなければならない。仕事は自分でどんどん探しに行かねばならない。探せばやれることは山のようにあり、探さなければ割となんにもすることがない。
傾向としては、アメリカのような国の災害医療はプロトコルをはっきりさせ、指揮系統もきちんと決めて、中央が指示、末端は言われたことをきっちりやるという方法をとりがちである。このほうが効率が良いし、目に見えるアウトカムは出しやすい。その反面、杓子定規の対応になりがちで、it is not my job 的な反応もでてきてしまう。環境の違いにも微調整できない。日本の災害医療は系統だったスマートさはアメリカには及ばないが、機微に富んだ医療が可能である。ただ、能率は低下しがちでお見合い、ダブルブッキング、「こんなはずじゃなかった」、連絡のエラーはおきやすい。あと、診療医の思いが強すぎるとイデオロギーが強くなりすぎてコヒーレントなチーム医療が困難になることもある。
野球的な医療ではピッチャーはピッチャーであり、キャッチャーはキャッチャーである。それ以外の選択肢はないし、勝手にサードがピッチャーやり出したら周りは大迷惑だ。サッカー的な医療では、そうではない。左サイドバックだからといって攻撃なんてしません、とか右サイドには行きません、、、というのは困る。時に内科医的に振る舞い、時に外科医的に振る舞い、時に小児科的に振る舞い、時に精神科的に振る舞う。場合によってはナースの役を演じ、薬剤師の役割を演じ、カウンセラーを演じ、事務方をやり、土方をやり、荷物運びをやり、清掃員をやる。
振る舞いは周囲の環境が規定する。「なんでもできる」と自認するジェネラリストであっても、一緒に仕事をする医師が整形外科医であれば、足腰系の主訴はそちらに廻すのが礼儀である。隣に循環器の医師がいれば、高血圧などはそちらにお任せするのがマナーであろう。逆に「咳と熱をみてほしいんですけど」と要請されれば、咳と熱だけをみる徹底したスペシャリストとして振る舞わねばならない。
一般に、災害時の避難所の医療は訪問診療でも診療所でもジェネラリスト的ユーティリティープレイヤーが有利だが、日本の今のリソースだと、スペシャリストにもうまく活躍してもらえないと、とてもとても回らない。どのような専門性を持っていても相応の活躍をしてもらわねばならない。だから、ジェネラリストかスペシャリストか、ではなく、ジェネラリストも、スペシャリストも、でなければならない。そのためにサッカー的なチームプレイが必要になる。例えば、いまは咳がとても多い。咳に慣れたジェネラリストはもちろん、活躍できる。一方、夕刻車で通った耳鼻科の開業医さん。診療再開されていたが、大量の患者さんがやってきていた。こんなふうに、各人がオールジャパンで自らの武器を活かすのがよい。
日々構成員の変わる混成チームの場合、「自分ができる医療」を貫くよりも、周囲の状況に合わせて自分の振る舞いをアジャストするのが大切だ。途中交代で俊足のウインガーが入ったら、サイド攻撃は彼に任せて(自分ができる、できないにかかわらず)自分が「期待されている」仕事をやればよい。ウインガーがいなくなったら、代わりに自分がサイドで走り回る。そんなイメージだ。
市内の開業医さんたちも少しずつ再起動している。そちらにうまく移行したいが、足がないのが痛い。車を失った人が多いからだ。機能はしっかり残っている赤十字病院は今も稼働率は例年以上で、あまりなんでもかんでも負荷をかけたくない。理想的には地元のリソースに移行したいが、患者さんは避難所の診療所を求めている。yes but , yes butを繰り返しながら微調整をする。原理・原則、理想論の追求は、割とうまくいかない。むろん、理想論が不要だという意味でもない。yes but, yes butを繰り返すのである。
全国から多種多様な医療者が集まっている。事務方、薬剤師、技師、ナース、ドクターなど。医師会、県立病院、大学病院、急性期医療、慢性期医療、いろいろなプレイヤーが集まっている。バックグラウンドはそれぞれ異なる。
こういうときは「私のやり方」をごり押ししてはだめで、ハーモニアスにやるのが大事である。自分はどうせ早晩撤収する。次のドクターが「???」にならないように継続性のある診療をしなければならない。NEJMに出ていた最新の医療ではなく、「エビデンスはぱっとしないけど、みんながやっている医療」のほうが正しいこともある。もちろん、先週のドクターのやり方を全否定、ちゃぶ台ひっくりがえしはもってのほかだ。
まあ、胃潰瘍の患者にNSAIDSが「痛み止め」に入っていたり、1歳のこのかぜにセフェムを使っていたり、6歳の子の風邪にミノマイシンが使われていたり(ToT)、いろいろあるけれど、言ってもせん無い話なのである。どうしても薬を変える必要があるときは「そろそろこの薬も必要なくない時期だと思いますねえ」とか言いながら、上手に変えていく。即席で作った場合のチーム医療とはそういうものではないかと思う。オールスターゲームの戦い方というか、そんな感じである。フィロソフィーの合致するいつものチームでの医療ではなく、いろいろなフィロソフィーの混成チームなのである。こういうときには自分のフィロソフィーはすこーし安売りしておくのがよい。
高血圧がとても多い。できることはあまりない。食事は配給のおにぎり、弁当、カップヌードル、菓子パンなど。運動はできない。自分や配偶者の喫煙もなかなか減らせない。いや、むしろ増えている人が多い。開業医さんのところには車がないのでいけない。ちょっと降圧薬を出して、医療システムの回復を待つ、、みたいな医療になってしまう。ロング・タームの医療は(途上国の医療のように)まだセットアップができていない。ここは「流す」しかない。
甲状腺が大きな患者が徐脈でやってくる。両下腿浮腫の患者がくる。気になる患者ばかりだが、検査なしのワンポイントリリーフでは、どこまで突っ込んで良いのか分からない。微妙な綱渡りが必要になる。ここでの診療はかなり難しい。みんなが悩みながら煮え切らない診療をやっている。
自転車で転んで顔をすりむいた人が来る。酒臭い。朝から飲んでいる。タバコも多い。震災で仕事を無くし、家族をなくし、金がない。家は今も冠水していて満潮になると立ち入り禁止になる。いろいろお話するが、生きていても仕方がないと言われる。「そういわずに前向きに生きましょう」とはさすがに言えない。「生きていても仕方がない」と言われて反論できないような説得力がここにはある。傷の処置をして、ハトキを打って、雑談して、訪問サービスを提供している保健師さんにこっそり住所をちくってあとでまわってもらうことにする。僕の期限は明日まで。ワンポイントリリーフにできるのはハトキを打つくらいだ。僕らにできることは本当に本当にわずかだ。
ここでの経験は学びの経験である。教えてもらうことばかりだ。与えることができるものはごくわずかで、多くのものを与えられているのは僕である。
読んでいると、現地に行っていない私にも、
たくさんのものを与えてもらってます。
私もまわりに多くのものを与えてもらいながら、
少しでもそれが誰かに与えられるように、より努力したいと思います。
ありがとうございます。
投稿情報: naomikan | 2011/05/31 13:36
先生 こんにちは。
『検査なしのワンポイントリリーフで、どこまで突っ込んで良いのか分からない難しい状況のなか、悩みながら煮え切らない診療をやる。』
夜間、採血やレントゲン検査ができないような病院で、アルバイト的な当直をするような心境に近いのでしょうか。。
私自身、一人勤務なので、外来を離れるわけにいかず、とても被災地へ応援に行ける状況ではないのですが、先生のご経験や体験談を通して、いろいろと教えていただきたいと思います。
被災地の人々にとって、一日も早く、平穏な日々が取り戻されることを願いつつ、この地で、今目の前にいる、困っている人の役立つように、今後も努力していきたいと思います。
投稿情報: Akeminnko | 2011/05/18 21:49