今、書いている本の一部です。長いです。
新型コロナウイルス感染症界隈では、普段、感染症系の書類を書いたことがない人も、感染対策に駆り出されて書類作成をお願いされました。あまりに無駄が多くてうんざりした人も多かったのではないでしょうか。これは「紙の」書類のみならず、コンピューター上の入力作業も同様です。
なぜ、医療の世界ではムダ書類が多いのか。
理由はいろいろだと思いますが、ぼくは最大の理由に日本社会の「努力主義」があると思っています。
日本社会における評価のポイントは「努力」なのです。頑張ったことに対して対価が与えられる。頑張ったことを評価される。その頑張りが何をもたらしたのか、はあまり関係ない。
だから、書類仕事も簡単な書式では満足できない。あれも、これも書かせないと「ちゃんと書類を書いた」ことにならない。
診療時の保険審査で「病状詳記」を書かされることがあります。あれも、保険審査で通すべき根拠が明示されてればいいわけで、別にダラダラと長く書く必要はないはずなのです。しかし、短く書くと「もっと長く詳しく書いてくれ」と要求してきます。長く書けば、読みにくく、わかりにくいですが、そこは構わない。簡潔明瞭な分かりやすい文章では通らない。
要するに、あれは案件が保険を通すべき案件か否かを吟味しているのではなく、「お前が汗水たらしてたくさん作文して、我々に忠義を尽くしたか」を吟味しているんです。ま、一種の「いじめ」です。本当に嫌らしい根性です。
だから、日本の役所の通知は理解しにくく、分かりにくいですよね。もっとシンプルに短く書けばよいのに、とぼくはいつも思っています。でも、だめなんです。シンプルに短く書くと「サボってるみたい」だから。弄り回して、こねくり回して、長々と冗長な文章を書くことこそが「努力の証」なんです。
医療界を含む日本社会では、無意味なブルシットジョブを嫌な顔ひとつ見せずにすすんでやる人こそが高く評価されます。これが上役への忠誠心の証明になるのです。「こんな書類、ムダじゃないですか」なんて言おうものなら、その人物の評価はだだ下がりです。その書類がムダであればあるほど、その書類を嫌な顔ひとつせずに書く態度が強い忠誠心の証になるという、、、ああ、くだらない。
だから、ぼくは日本の「評価」システムを全体的に信用していません。なぜなら、日本社会では個々人の評価活動が必ずしも個人の能力の正当な評価に役立っていないからです。ひいては組織の向上、改善にも繋がっていないからです。評価しているのは、「俺様に対する絶対的な忠誠心」なのです。
現在、様々な「新しい」評価方法が導入されています。定量的評価、定性的評価、360度評価、コンピューターによる入力、ポートフォリオなどなど。
しかし、どんなに技術的に優れた評価方法を採用しても、根っこのところで上が下への忠誠心を根拠にして評価を下していれば、同じことです。
例えば、研修医は上級医の指示、命令を忠実に遂行することによって高い評価を得ます。360度評価のときは、看護師長など周辺の職員の好みに忠実にすり合わせることが評価の対象となります。要するに、「上に気に入られること」が評価の根拠になるのです。この根っこのところが変わらない限り、どんなにサビ-でナウくてトレンディな評価方法を導入しても、だれもが忠実な奴隷化を妨げられません。
そして、そういう職場環境ではサービス残業が横行し、ムダなブルシットジョブが横行します。サービス残業やブルシットジョブこそが人の忠誠心を吟味するのに最も手っ取り早い方法だからです。与えられたブルシットジョブがムダで非合理で、意味のないものであればあるほど、それを喜んで遂行する人物の評価は上がります。「こんっなに意味のない仕事を嬉々としてやってくれるほど、お前は私に忠実なのか」というわけです。本当に必要なのは「こんな無駄な仕事を部下に押し付けているあなたは、やばいですよ」と教えてくれる(本当の意味で)優秀な部下なのですが。
ぼくが部下を評価するポイントのひとつは「ルールを守っているか」です。俺の言うことを聞いているか、ではありません。
大学病院には大学病院のルールがありますし、感染症内科内には感染症内科のルールがあります。
例えば、ぼくらの医局では午後8時以降に医局に残っているのは原則禁止です。患者の緊急対応や当直時は別ですが。しかし、何かの話し合いとかしていて、8時以降まで医局に残っていることがあります。これは「ルール違反」として叱責の対象となります。
しかし、ルールの範囲内であれば、ルールを守っていれば、上に気にいられる必要はありません。例えば、感染症の治療でもぼくが好みの治療法と、そうでない治療法があります。どちらがより優れた治療かどうかは、科学的な決着がついていません。そういうことはよくあります。
たとえぼくが好まない治療であっても、それが妥当性の高い治療であれば叱責の対象にはなりません。ガチの激論になる可能性はありますけどね(笑)。「好悪の問題」と「当否の問題」は厳密に分けることが大事です。
むしろ、上司であっても間違ったことをしていれば、それをちゃんと指摘してくれる部下の方が、評価は高いです。自分の頭で考え、議論し、上司に対してもそれを発動できるのは能力が高く、倫理的にも高潔であるからです。もちろん、ただ上に楯突いているだけの反抗的な態度が高評価の根拠になるわけではありませんけれども。
ぼく自身がとても反抗的な人間なので(笑)、反抗的であることそのものは評価を下げる根拠にはしていません。ただし、反抗的な態度にもスキルが必要です。
ただ、ふてくされているだけとか、反対ばかりしている人は「効果的な反抗」ができていません。現状が気に入らないなら、なぜ気に入らないのか、そしてどうすれば改善できるのか、それを具体的に提言できなければなりません。
それから、提言は組織や病院、ひいては社会全体がよくなるような建設的な批判でなければなりません。私はそれを気に入らない、というような、「好み」の問題で議論をふっかけるのは生産的とは言えません。
議論をするときには、論理的に整合性が取れており、相手の意見もちゃんと取り入れる形でなければなりません。議論が平行線をたどったり、相手の話を聞かないような議論は時間の無駄です。こういう議論(というか論争)をふっかけてばかりで、徒に相手の時間を奪っているような態度を摂っていればそれは評価を下げる根拠になります。チームのパフォーマンスを自ら下げるような人は、評価が高まるわけがありません。
要するに、チームパフォーマンスが上がることに寄与していれば評価は高まるのです。ただ、上層部の言うことを素直に聞いているだけではチームの真のパフォーマンスは上がりません。その場を丸く収めているだけで、ブルシットジョブはなくならないし、チームのパフォーマンスも、医療の質も上がりません。かといって、イチャモンを付けたり喧嘩をふっかけているだけでもやはりチームパフォーマンスは上がりません。
よって、ぼくは部下の評価はチームパフォーマンスの向上に寄与しているかどうかを中心に行っています。
それから、ぼくは「平等に」人を評価することはしません。人はそれぞれ、異なる属性を持っているからです。
例えば、コミュニケーション能力は、医療者の能力としては非常に重要な能力の一つです。だから、コミュニケーション能力が高い医療者を、その能力が故に高く評価するのは当然です。
しかし、コミュニケーション能力が一見低い人であっても、必ずしも低評価の根拠としてはいけません。生まれつきコミュニケーションが苦手な人はいるものです。
しかし、寡黙でコミュニケーションや議論が苦手な人でも、他に優れた長所を発揮し続けていれば、それは高評価の対象になります。すべての側面で優れている必要はないのです。
ぼくが教えていた研修医で、とても寡黙で、プレゼンも苦手な人がいました。しかし、この人に文章を書かせると、非常に上手でしかも論理的なことに驚かされたことがあります。プレゼンの上手な研修医のほうがスマートでロジカルな印象を与えていたのですが、「プレゼンの上手さ」故に論理の甘さや根拠の乏しさが隠れてしまったりするのです。しかし、この寡黙な研修医は、しゃべらせると説得力がないのですが、書かせると非常に緻密で説得力のある議論を展開するのでした。
こうして考えてみると、いわゆる「コミュニケーション能力」は論理や知識といった内科系医学の能力の欠如を覆い隠してしまうような、そんな弊害が潜んでいるとぼくは思います。そういえば、米国には、こういう「中身はないけどプレゼン上手」な研修医がたくさんいました。コミュニケーション能力があること自体は全然悪いことではないんだけど、そういう弊害には指導医は意識的になっていたほうが良いです。
コミュニケーション能力同様に慎重になっておくべきはジェンダーのバイアスやルックスのバイアスです。例えば、往々にして男性指導医は見た目に秀でた女性医師に甘くなる傾向があるように思います。自分では意識してないかもしれませんが、一種のルッキズムになっているわけです。え?俺はどうかって?そ、そ、そんなこと、、ないぞ。
最近では、ニューロダイバーシティー(neurodiversity) という言葉があるそうです。神経の多様性、ですね。例えば、アスペルガー症候群や注意欠如多動症のような、発達障害のある方は、一般にコミュニケーションが苦手だと言われます。しかし、そのような、一種のハンディキャップに周りが気づき、そこに配慮してあげることで、十分にコミュニケーションが可能になります。個々人のコミュニケーション能力をあまり強調しすぎると、こういう人たちの居心地が悪くなってしまいます。構音障害などの言語障害を持つ人の場合も同様ですね。
ぼくが米国で感染症フェローをしていたときは、後輩のフェローは難聴を持っていましたが、補聴器などのサポートを得ればそれはそれは優秀でした。様々なハンディキャップの存在は、その人物の評価を過剰に低くしてしまいがちですが、そこは評価者の知識や配慮でカバーできますし、そうすべきだと思います。
繰り返します。コミュニケーション能力は評価の対象とすべきですが、コミュニケーション能力に問題があったとしても、それを一種のハンディキャップ、と考えれば、他の優れた能力を正当に評価できます。逆にコミュニケーション能力に優れていることが、論理的思考や知識などの欠如をマスクしてしまい、過大評価をしてしまうこともあります。過大評価は必ずしも本人にとってよいこととは限らず、過度に重要なポストを与えてしまってプレッシャーになってしまったりすることもあります。これはこれで、ちょっと残酷な仕打ちです。
とにかく、「俺様に従順かどうか」「俺様の価値観に寄り添っているか」という評価基準を評価者が持っている限り、評価は正当には行われません。また、従順や価値観への寄り添いを根拠にすると、みんなが同じ考え方をする等質な集団になってしまい、これはこれでとても危険です。
多様性の尊重とよく言いますが、考え方や価値観が異なっていてもちゃんと仕事ができる集団は強い集団なのです。同じ価値観で固まっている集団は、簡単に団結できるので一見よいチームができそうですが、間違ったときに修正がききませんし、一種のカルト的な存在にもなりがちで、チームの外と噛み合わなくなってしまうリスクもあります。
うちの研修医にもよく教えるのですが、「あの人とは合わない」といって、口もきかなくなってしまう研修医がたまにいます。「あの人とは合わないけれど、ちゃんと一緒に仕事ができる」が正解です。
神戸大学病院感染症内科の後期研修のミッションは「世界のどこにいっても通用する感染症のプロになる」ことであり、世界の舞台では、価値観が同じ人と一緒に仕事をするほうが難しいくらいです。アマチュアの部活動ではないのですから、価値観があわなくてもちゃんとミッションを遂行できねば、プロとは言えません。
そういう意味では、同じ価値観を共有する、をチームの前提としている日本の医局の多くは、その精神においてアマチュアなのだとぼくは思います。
そして、多様性を認め、価値観の異なるメンバーとも仕事が遂行できるプロ集団になってこそ、「忠誠心を試す」ような無意味なブルシット・ジョブは消滅するとぼくは思うのです。
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