安倍首相が7自治体の緊急事態宣言を出したとき、「これはロックダウンではない」と述べている。
各メディアもその解釈を追随した。「改正新型インフルエンザ対策特別措置法の緊急事態宣言は政府が対象区域を示し、具体的な措置は都道府県知事が行う。知事は同法45条1項に基づき外出自粛が要請できるが、海外と異なり無許可の外出に罰則を科すような強制力はない。通勤や通院、食料の買い出しといった暮らしに欠かせない目的であれば自粛を求められない」(日本経済新聞4月6日)。
しかし、これは間違いだ。詭弁、といってもよい。
ロックダウンは「概念」である。具体的にはある地域の内外の移動を止め、その地域内での外出を止めるのが「ざっくりとした」ロックダウンの概念だ。なぜ、そんなことをするのか。前者は感染の他地域への拡大を防止するためであり、後者は地域内での感染者の増加を防ぐためだ。
感染症は感染経路を遮断すれば流行は抑え込める。感染者を見つけ、その濃厚接触者をトレースし、診断し、隔離するという「クラスター対策」も感染者と非感染者を分断することで感染経路を遮断するために行う。が、これはクラスターが小規模だったり少数だった場合は有効だが、大規模な感染の広がりで「後ろから追っかける」ことでおいつけなくなると無効になる。作戦変更が必要となるわけだが、感染者を後ろから追いかけるのではなく、「全てを感染者という前提で」扱うのがロックダウン、というわけだ。
緊急事態宣言は東京を始めとする感染拡大地域からさらに別の場所での感染の拡大を阻止し、さらには地域内での流行を抑え込むためにある。大事なのは外に出ないこと、仮に、やむをえず外に出ても距離を保って感染経路を遮断することだ。マスクに全く意味がないとはいえないかもしれないが、マスクの効果は前2者よりも圧倒的に小さく、3の次、4の次の戦略だ。
要するに、緊急事態宣言とは、ロックダウンという「概念」を用いて感染症を封じ込めるというミッションを達成するために日本が行いうる最大限の「手段」なのである。間違っても、「目的」ではない。
国際的にもロックダウンに一律の定義はない。各国でロックダウンのあり方は違うし、同じ国でもロックダウンのあり方は変化し続ける。今朝のBBCによると、スペインやイタリアはロックダウンを緩めるそうだ。感染拡大がスローダウンしているからだ。一方、フランスは更に厳しいロックダウンに逆戻りしている。ロックダウンは動的概念だ。
繰り返すがロックダウンは「概念」であり、硬直的なものではない。「緊急事態宣言はロックダウンではない」が詭弁なのもそのためだ。
よって、政府が出すべきメッセージはそのミッションに合致したものではならなかった。「外に出るな」「家にいろ」「遠くに行くな」「やむを得ず外に出るときは距離を保て」「それもかなわないときはマスクも許容される」である。その「手段」としての緊急事態宣言である。緊急事態宣言自体には強制力はないが、ロックダウンという「概念」の達成のために、それを行っているのだ、というメッセージはもっと強く出せたはずだ。
しかし、メッセージはうまく出せなかった。結局、別の大臣が休業要請は見送ってみたりして、通勤ラッシュはまだ続いている。マスクはあくまでもサブなのに、あたかも主であるかのようなほのめかしをするから、人と人との距離は十分に保てていない。「3密」などという概念を持ち出し、あたかも夜の外出だけが悪いかのような「ほのめかし」をするから、朝や昼ならいいのだろう、3密じゃなきゃいいのだろう、という印象を与える。「メッセージ」とそういう印象を与えないために行うのだ。強制力がないからこそ、メッセージは最高級のものにすべきだったのに、おそらくは関係各氏の「あれやこれやの事情」で骨抜きになって、グダグダなメッセージになってしまった。メッセージは一貫して同じミッションに向かうべきなのに、「人によって言うことが違う」わけだから、伝わるわけはないのだ。
「一貫したメッセージ」が出せず、ハーモナイゼーションができないところが問題だ。例えば、当初から専門家会議は「軽症者は受診せず、自宅で待機」といい続けていた。それは「軽症のコロナを診断する意味は小さいし、入院は不要なんだよ」というメッセージだったはずだ(そうはっきり言えばよかった)。そして重症になったときだけ入院する。だとすれば、軽症、無症状でPCR陽性のものも入院しなくてよいはずだ。このことは2月くらいからずっと言っている。しかし今もPCR陽性だと入院は強制される。「検査を受けていない」コロナ患者は自宅にいる。一貫性がない。
帰国者の検疫では無症状なのになぜかPCRをやる。陽性になると入院させる。一貫性がないじゃないか、と批判すると「お前は感染症法と検疫法の違いも知らんのか」とわけの分からぬ揚げ足取りをされる。
知らん。ぼくにとっては必要なのは一貫した患者の扱いであり、検疫法で扱った患者と、感染症法で扱った患者の診療の仕方が異なる、というのは関係部署の調整不足とハーモナイゼーションが足りないだけの、失敗した行政だと考える。それを「担当が違うから」と賢しらに言うのは形式主義者の官僚の論理であり、医学医療はそのように扱うべきではない。
ぼくがクルーズ船で背広を着た検疫官と歩いていたとき、隣をF医科大学に搬送されるPCR陽性の集団がいて、検疫官は「いま患者とすれちがっちゃったよ」と言った。この話を紹介したとき、ある役人に「岩田先生、それは患者ではなく感染者ですよ」と鬼の首を取ったように反論されて絶句した。
「患者と感染者の違い」などは厚労省が勝手に決めた基準に過ぎず、国際的には全てCOVID-19であり、そして感染対策上の扱いは同じである。ウイルスを排出する者の横をマスク一枚、背広姿の検疫官が通り過ぎて許される、というレッドとグリーンの無垢別こそが問題なのであり、「あなたは感染者と患者の区別がついていない」と揚げ足を取る東大話法は本質よりも形式を重んじているからこそ起こりうる論法なのだ。この危機時にそんな浮ついた議論をしていてはいけない。緊急事態宣言とロックダウンは同じだ、と申し上げているのも「そういう意味」においてである。
もし、幼稚園が感染対策のために休園になるのなら、同じ年齢層で同じリスクをかかえた保育園も同じ処置を取るのがハーモナイゼーションであり、ミッションから逆算した当然の施策である。「幼稚園と保育園は管轄が違うから別扱いですよ」というのは官僚目線の間違った論法だ。繰り返すが、こういう議論の仕方は間違っている。異なった管轄間で共同して、同じメッセージを出すのが正しいやり方だ。
流行が拡大している地域においては、効果的な感染経路の遮断こそが必要だ。繰り返すが、「緊急事態宣言の発動」は目的ではない。手段である。求めるべきは「ロックダウン」なのだ。すべての人達がこの「概念」を共有しないかぎり、結果はだせない。そして、だすべきは結果だけ、なのである。
> 知らん。ぼくにとっては必要なのは一貫した患者の扱いであり、検疫法で扱った患者と、感染症法で扱った患者の診療の仕方が異なる、というのは関係部署の調整不足とハーモナイゼーションが足りないだけの、失敗した行政だと考える。それを「担当が違うから」と賢しらに言うのは形式主義者の官僚の論理であり、医学医療はそのように扱うべきではない。
それは厳密にいうなら「失敗した行政」ではなく「失敗した立法」ではないかと思います。
そして日本は法治国家であり、たとえ失敗した法律でもそれがそこにある以上は守る必要や破らない工夫、あるいはそれを改正する政治が必要です。
「知らん」と言い切ってしまっては研究はできても実践はできますまい。
法律なんか関係なく、感染症対策として合理的な物を追求する。
それはそれであるべき視点と思いますが、現実社会の制約(経済、制度、政治、文化、習慣)との調和を考慮しない指針は机上の空論に止まると思います。
投稿情報: Emporioarbitris | 2020/04/27 11:16
医療従事者への感謝をまず示した緊急事態宣言での安倍首相の会見を評価されていたので真意はどこにと思っていたのですが、この話を知って安堵しました。
もう密閉・密接・密集という訳の分からない3密はやめてほしい。ことさらいうまでのない事態をことさらに言い立てるのは逆に勘違いを起こすとおもう。3密でないと昭恵夫人をかばった人を筆頭に、同じ類の人種が公園や海岸で当たり前のように動いてる。今肝心なのは社会的距離を取るソーシャルディスタンシングを守ること。なぜかこのことを専門家会議では言及していない。あくまでオリジナルの3密に固執している。NHKでは社会的距離と共に3密を守ろうと放映しているが、どっちなんだよと突っ込みたくなる。
突っ込みたくなるのは、最低7割、極力8割の接触機会削減というおおよそ目標を示すのにふさわしくない優柔不断の掛け声だが、今回は最低7割は削除された。いつもこれで行くんだという決意も情熱も感じられない安倍首相の態度がよく表れていた。
投稿情報: Inkyo_roujin | 2020/04/23 20:04
あとちょっと怖いと思ったのが、一部のアスリートが政府の対応にたいし「全力で頑張ってるはずだから文句を言うべきでない」的な論法を使っちゃってる所です。
スポーツと違ってプレーの内容が人々に対して全てオープンでないこと、スポーツの試合のようにコンマ1秒レベルで意思決定を迫られているわけではなく、議論を挟む余裕があること
これらの違いを考慮せずにスポーツ的なリーダーシップ論を政府のオペレーションにまで適応してしまうのはいささかよくないと感じました。(政府の対応を肯定すべきでないという話ではなく)
アスリートはプレーを観客に全て見られてる以上責任逃れは出来ませんが、官僚はそうではないですからね。
投稿情報: 1_t7t | 2020/04/18 20:39
最近このブログに辿りつきました
最初は難解に感じましたが、つぼを抑えると先生の論理展開は極めて的確に感じます
(プログラミング的思考と近い気がします)
東大話法という単語をよく拝見したので調べてみましたが
https://note.com/chidaism/n/ne335fefa974f
なかなかに怖いと思いました。高山さんの投稿を称賛してる人はかなりの数いましたから。
もっともこの話法を使うのは自分の知る限り東大出身ばかりではない気もしますが。
先生の言ってることは概ね理解出来るのですが、マスクに関しては些か疑問が残ります。
ざっくり言って「個人がマスクをつけることは当人の感染予防に寄与しない」ことと「マスクをつける人間が多いほどうつすリスクがが減りその集団は感染しにくくなる」ことは両立しうる気がするのですが。
マスクをつけることにリスクがないのであれば、後者の仮説が事実である可能性を見越して、なるべくみんながマスクをつける、ということは肯定していいような気がするのですが。
もちろんその仮説が思い込みになって、「マスクがあれば大丈夫」、とロックダウンを先延ばしにするのは論外ですが。そもそもマスクがあれば医療機器に回せってのが現状でしょうし。
もしマスクの供給が充足している場合ではどのような提言をなされますか。
結局この国の問題の多くのsystem failure だと思います。ここが変わらないと誰が上に立っても変わらない。
一方でそれを保身に利用し、寄生してる人間がいるのも事実。どうにかならんかな、と思います。
応援しています。
投稿情報: 1_t7t | 2020/04/17 04:02
出すべきは結果だけなので、詭弁でもなんでも良いのですが、そもそも求めてる結果に説明が無いのです。例えば岩田さんや西浦さんは、収束させることを求めて、ロックダウンや八割減を表明しました。なのでこちらは、求める結果に対する賛否や、途中の考え方や出てきた数値を自分なりに判断、評価することができます。一方で政策を決める側からは、何を結果に求めてるのか説明が無いのです。どの程度の経済の停滞を許容して、どの程度疫病の被害を許容して決めた政策なのか全く分からないので、何一つ評価することすらできないのです。例えば人口130万人、累計感染者200人、昨日一昨日と2人、3人の感染者発覚という我が市では、全ての小学校は5が初旬まで休校で、まるで感染ゼロを求めてるようにみえますが、もちろん数値目標などどこにもないのです。日本中の政策が、なんとなくの空気で行われてるような気がしてます。
投稿情報: Nobutarou | 2020/04/14 21:55