医療系の裁判で意見書を書くことが多い。
病院(被告)側弁護士から求められることもあるし、患者・家族(原告)側弁護士から求められることもある。基本スタンスは同じで、
「真実はどこにあったのか、問題の原因はなんだったのか、何が解決策なのか、の3点を中立的に検討します」と申し上げている。このスタンスにご同意いただけない場合は、意見書の作成はお断りしている。
これは医療安全の原理原則と言ってもよい。医療安全部門がある事象に対して行うべきは上記の3点「だけ」だからだ。他のことは一切必要ない。
一切必要ないのだが、医療機関の医療安全部門の多くはこのような原則を踏襲できていないように思う。
現段階では詳細は書かないが、ある裁判事例で、日本医療安全調査機構の医療事故調査・支援センターが調査報告書を作成している。これがひどい。端的に言えば「白血球やCRPが上がっていなかったのだから重症感染症は予見できなかった、よって起こったことは仕方がない」という内容である。
まず「事実」という点で言えば、このステートメントは端的に間違いだ。炎症マーカーの感度、特異度を吟味した研究は多々あるが、一貫しているのが「CRPが正常」を根拠に細菌感染症を否定することは不可能だ、ということだ。これは臨床感染症のプロであれば「常識」だし、青木眞先生の「マニュアル」で勉強している研修医たち(真面目な研修医であれば読んでいるだろう)にとっても「常識」の範疇に入る。白血球に至っては、重症感染症だとむしろ低下することもある。敗血症は臓器不全を伴う重症感染症だが、肝不全が進むと(肝臓で作られる)CRPは作られなくなる。あるいは、発症初期にはCRPの産生はまだ行われない。新世代のマーカーたるプロカルシトニンなども感染症の「除外」根拠としては弱く、これも多くの研究データがある。日本医療安全調査機構がこのような臨床感染症学の「常識」(研修医レベルでも知っている「いろは」)を知らなかったとしたら、このような案件を扱う資格はない。知っていて「忖度」したのであれば、医療安全を語る資格すらない。報告書を読む限り、「その両方」というのが事実のように思う。
インシデントが起きたとき、多くの医療安全系の担当者がやろうとするのは「真実」の追求ではない。「波風をできるだけ立てない」事なかれ主義だ。あるいは、特定の人物を怒らせたりアップセットさせない「忖度」だ。本来、医療安全の業務は「誰」ではなく「なに」を対象とする仕事であるが、現実には「誰」のほうが大事で、「事実」とは無関係に穏便にことをなかったことにしようとする。
しかし、穏便に済ますレベルには閾値が存在する。ある閾値を超えると、「もうこれはかばいようがない」レベルに達する。かばいようがないレベル、すなわち「タコ殴りにしても、だれも文句は言わないだろう」レベルである。この時点で医療安全関係者の態度は豹変する。下手にかばうとこちらにとばっちりが来るからだ。かくして、全方位的にディフェンス姿勢でいた医療安全担当者は閾値を超えた瞬間にオフェンスにまわり、全方位的なタコ殴りに加担する。研修医など「忖度」の必要のない人物においてはこの閾値は非常に低く、「かばう」から「殴る」に変じる可能性が高い(研修医たち、気をつけろよ)。やんごとなき人物になればなるほど、閾値は高くなるが、「かばいようがないレベル」に達すると途端にタコ殴りにするのは同様だ。
本来ならば、医療安全はだれもかばってはいけない。同時に、誰一人タコ殴りにしてはいけない。行うべきは真実の追求であり、そこから導き出される再発防止策だけである。真実なんでどうでもいいから、殴るか?守るか?というスタンスで議論するから間違えるのである。
閾値を決めるのは「皆の納得」であり「周囲の空気」であり、「忖度」である。だから日本の会議はやたらと長いのだ。議論の中身の論理的妥当性やデータの解釈ではなく、「皆が議論を尽くして疲れて、もういいや、と納得すれば」審議事項は通るのである。国会審議も「何時間議論した」がメディアの話題になることがあるが、くだらない話だ。概ね高齢者が多い日本の政治家たちが長時間議論したって疲れて頭がぼおーっとして、むしろ悪判断に陥るリスクのほうが高い。神戸大医学研究科の教授会もこの手の失敗が多い。「みなさん、議論を尽くしましたか、納得しましたか」で非論理的な結論が導き出される。
考えてみると、この「閾値が来るまではかばう、閾値を超えればタコ殴り」は日本のマスメディアやソーシャルメディアの常套手段である。芸人の不祥事などはほとんどこれで処理される。次のターニングポイントは「禊」であり、ある一定の時期が来て「もうそろそろ許してやろう」という「空気」が醸造されて初めてかの人物は復活する。大事なのは「こと」ではなく「人」であり、「空気」だからだ。
そうすると、「かばってもらえる」ために事実を隠蔽しようとするのは当たり前である。タコ殴りにされてはたまらないからだ。タコ殴りにしない、閾値を作らないエートスがあれば、誰も嘘をついたりしなくてすんだはずだ。
真実なんてどうでもいい。間違いはバレなければいい。日本の政治家、官僚などにもはびこるエートスにすらなっている。もはや彼らには偉い人、エリートとしてのプライドはなく、小物感しか感じられない。そんな小物感満載で事実を隠蔽し、歪曲し、データを捻じ曲げ、隠し、捨てて、こんなことに大きなエネルギーを割いている日本の官僚を見ていたら、「ああはなりたくない」と若者が思うのは当たり前だ。かくして霞が関で日本のために頑張りたいという優秀な学生は激減することとなる。
真実なんてどうでもいい。国民なんて馬鹿な方がいい。不祥事だってやり過ごせばどうせ忘れてくれる。選挙のときだけしおらしくしておけばいい。こういう国会議員の態度は国民を「愚民」化して手なづけて、あとは勝手に議事を進めるのに便利だと考えているのかもしれないが、これも短見だ。
そもそも日本が戦後、極端な経済成長、技術立国化をなしえたのは平均的な国民の能力が高かったからである。皆が学校に行き、文字が読め、四則計算ができる。高い技術で質の高い製品を中小企業が作り、その技術の恩恵を受けて「日本の技術は素晴らしい」と評価される。日本の学術研究が質においても量においても優れていた(過去形)のも、一部のエリートのみを優遇したからではなく、国民教育全体のレベルが高かったからだ。地方出身の学生が「普通に学校で勉強して」成功しやすかったのもかつての日本の特徴で、それは平均値の高さがもたらしたものだ。現在の日本では、平均値は下げてよい、公的教育には期待しない。「持てるもの」が塾や私立学校受験進学を駆使しないと成功できない、という雰囲気が大きくなってきている。このような「選択と集中」が正しいと信じている人は多い。
多いが、間違いだ。
このように「国民は全般にバカな方がいい」「選択と集中で一部の人だけガッツガツ勉強させる」と教育コストをケチり、教育機関を圧迫し、教育や学術研究を奨励しない態度を取り続けていれば、日本全体としての開発力が落ちるのは当たり前だ。それは国力の低下という結果をもたらし、長期のスパンで言えば、「国益」から真反対な結果に至るのである。いや、そのような結果はすでに生じている。
話は若干ずれたが、「閾値が来るまではかばい、閾値を超えればタコ殴り」な態度は、隠蔽体質をうみ、真実なんてどうでもいいという態度をもたらし、それはプロやエリートの職業倫理を損なわせ、それは国力を低下させる。結局は「個人」を重要視する左翼筋にとっても、「国家」をより重要視する右翼筋にとっても不愉快な結末しかもたらさないのである。
閾値を超えれば「タコ殴り」な態度は、「正当な(もちろん、ここでの「正当な」というのは「俺達目線では正当な」という意味だ)理由があればいじめは容認される」という態度である。本来、容認されてよいいじめなどひとつもないのである。しかし、公開処刑が「正当化」されてしまう日本では国民国家を上げて大人による大人のいじめを正当化しているのである。これで子どもたちのいじめがなくなるわけがないではないか。
この話は繰り返し論じてきたので「またか」と思われるむきも多いだろうが、性懲りもなくまた繰り返す。「ひと」や「空気」ではなく「こと」を論じるべきである。医療安全も「こと」のみに着目して議論する。下手に「かばおう」としない。かばおうという態度は、かばいきれなければ切って捨てるという態度であり、少しもヒューメインではない。むしろ、どんなにえげつないエラーであっても、それを個人を罰するために用いるのではなく、再発防止のために「だけ」、用いるべきだ。
日本医療安全調査機構のような大きな組織が「CRPが上がってないので感染症は予見できなかった」といったデタラメを公式な報告書に書いてしまうことは、今後もまた同じ根拠で同じエラーが発生し、そのたびに「しかたなかった」という言い訳を容認することを意味している。絶対に容認してはならない。こんなつまらない理由で患者が死ぬのは最悪だからだ。もう二度とこういう「つまらない理由」で患者を殺してはならない。本来、日本医療安全調査機構のような組織はそっちに目線を向けて活動すべき組織なのである。初心にかえって猛省すべきだ。
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