次に「政治は「生きづらさ」という主観を救えない」という小川榮太郎氏の論考を読んだ。新潮45の2018年10月号、「そんなにおかしいか「杉田水脈」論文」という特別企画のひとつだ。
テレビなどで性的嗜好をカミングアウトする云々という話を見る度に苦り切って呟く。「人間ならパンツは穿いておけよ」
冒頭の文章はこうだ。性については公に語るものではない、それは「アダムとイブ」以来のタブーである、という主張である。
この見解はそれほど的外れではない。性的タブーの程度は文化や宗教によって様々だが、性行為がある程度のタブー性を持つのはほぼすべての文化や宗教に存在する。同性愛がタブーなものもあれば、近親相姦がタブーなものもある。公の場で性行為を行うのはほとんどの社会でタブーである。「性」に文化的な抑制がかかるのは、当然視されている。このことは、拙著「感染症医が教える性の話」でも書いた。
ただし、このタブーというのはシンプルに否定的な概念であるがゆえにタブー、とは限らない。抑制はエロティシズムを惹起する上で重要な要素だったりするからだ。
我々が全裸で生活し、性行動を公の場で平気で行うようになれば、そこにはわいせつ性もエロティシズムも皆無になり、ついにはタブーな感覚そのものもなくなっていくはずだ(タブーとは得てしてそういうものだ)。タブーであるがゆえにそこにはエロティシズムが喚起されるのであり、性は単なる生殖行為といった動物的なものではなくなる。小川氏は「人間の性行為は「動物的な生殖行為」ではなく、羞恥すべきタブーにして密かな快楽としての性を生きる「人間」になった」と述べる。ぼくならば「タブーだからこそ密やかな快楽」なのだ、と換言したい。
さて、この緒言は杉田論文批評とはなんの関係もないパートのようである。では、本論を検討する。
小川氏は「無論、税金には、生産性という観点で救えない弱者に割り当てられる機能もある」とある。が、前回申し上げたように、LGBTに「生産性」がないわけではなく、かつ、杉田氏的に「生産性がない」人たちは他にもたくさんいる。LGBTは生産性という観点で救えないわけではなく、そもそもそういう観点から「救う」べきか否かというのは論点ですらない。「生産性という観点」「で」救えないのがLGBTであるとするならば、生産性という観点から救えばよいのだから(その方法はすでに述べた)。
ここには、杉田氏自身が述べたLGBTに「税金を使うのはおかしい」という意見の根拠が「生産性がない」からだという意見と、「生産性がないという観点で救う」という意見が混同されている。もっとも、小川氏が、差別的な意味で使うより一般的な意味での「救えない」人々という意図を込めて、この文章を使ったのであれば首尾一貫しているのかもしれないけれど。
次に、小川氏は杉田氏の勇気を称賛する。「多くの人々が内心共感しつつも、黙らせられているテーマについて果敢に発言する珍しい蛮勇がある」と。小川氏は文脈から解するに明らかにこの文章を褒める目的で使っているのだけれど、「蛮勇」とは「物事の筋道をよく考えないで、しゃにむに発揮する勇気、向こう見ずに突進する勇気」とある(日本国語大辞典)。この文章は色んな意味で正しいと思うので、ぼくも反論はしない。
その後、小川氏はLGBTという概念を「性的嗜好をこんな風にまとめることに、なんの根拠もない。このような概念に乗って議論する事自体を私は拒絶する」と述べている。
いつも申し上げていることだが、すべての分類は恣意的に作られていて、絶対に正しい唯一の分類というものは存在しない。これは自然科学の世界でも同様だ。LGBTというグループ化に一定の根拠があることはすでに述べたが、かといってそういうグルーーぷ化はおかしい、という反論も根拠のないことではない。もちろん「拒絶」するのも自由である。
しかし、だとするとこれは杉田氏の文章をアタマから否定したことになる。LGBTという対象そのものをテーマにしたのが杉田氏なのだから。杉田氏には「蛮勇」があって素晴らしいのだそうだが、その杉田氏の文章は全否定する。でも、「弱者」に物言う杉田氏は偉い。あれ?そもそも小川氏がカッコ付きで述べた「弱者」こそが杉田氏が論じた「LGBT」なのではないか?小川氏はLGBTという概念や議論を「拒絶する」と言っておきながら、これを全面的に認めているのである。不思議な議論である。
このあと、小川氏は「階級闘争」という概念そのものが、又、それを一般化して歴史の法則と見做す見方そのものが、仮説に過ぎない。と述べる。ぼくはいわゆる社会学者ではないが、歴史上、階級闘争は何度も発生し、今なお起きている現実なはずだ。それが「歴史の法則」と見做すのが仮説なだけなのではないか。マルクスだのポストマルクス主義などを例に上げて、差別や差別解消の営みまで無化してしまうのは、まったくもって乱暴な議論だ。
繰り返すが、ぼくはいわゆる社会学者ではない。が、生物学がかなりオーバーラップする医学者ではある。なので、生物学的にXXの雌かXYの雄しかない、だからゲイとかレズは生物学的に存在しない、という小川氏の意見は、遺伝子だけで表現形は決められないのみならず、同性愛を指向する遺伝子もあるのだ、と反論しよう(https://www.newscientist.com/article/2155810-what-do-the-new-gay-genes-tell-us-about-sexual-orientation/)。性染色体だけが遺伝子なのではないのだ、とも。
トランスジェンダーについてはすでに述べたので繰り返さない。が、「性転換をした後に後悔・自殺する人が後を絶たない」という見解には、根拠となる出典を示すべきだ。そのようなデータをぼくは知らない。百歩譲ってこの出典不明瞭なデータが事実だったと仮定しても、それが性転換そのものがもたらした自殺なのか、社会による差別偏見いじめハラスメントの類の結果なのかは、区別しなくてはならないだろう。
その後の、LGBTを認めるなら痴漢症候群の男の困苦、、、、云々の議論は、ぼくには割とよく理解できる。性的嗜好は個人的なものであり、それは多様なものであり、どのような性的嗜好も他者から否定されるべきではない、、、、と小川氏がホンキで思ってそう言っているのならば(疑わしいが)、その意見には賛成だ。
ただし、他者を苦しめる形で内的な嗜好が外的に発散されるのはよくない。性的概念のない小児に性行為を求めるペドフィルや、痴漢やレイプが許されないのはそのためだ。
しかし、同じバスに黒人が乗っているのが肉体的精神的に苦痛だ、という白人はたくさんいた。今もいる。小川氏は「LGBT様が論壇の大通りを歩いている風景は私には死ぬほどショックだ」と述べているので、そういう苦痛を感じているのだろう。よって、「他者が苦痛を覚えるものはダメ」という原則ではこの問題を克服できないことは明らかだ。難問である。おそらくは、小川氏が想定している以上の難問だ。
が、すべてのタブーを無化してから小川氏が全否定するのが同性婚である。結婚というのが歴史上、人類が生み出したシステムだという意見にはぼくも賛成だ。小川氏はこれを「叡智」と呼ぶ。が、結婚は叡智であっても、小川氏がいうほど「偉大」なわけではない。その正体に気づいたからこそ、結婚をしない、できない男女が増えているのである(https://fromportal.com/kakei/household/life-events/lifetime-unmarried-rate.html)。
歴史上必要な、あるいは必要とみなされた制度はたくさんある。奴隷制度、封建制度、専制などなど。いずれも歴史的な役割を終えて、あるいはテクノロジーの進化などにより、その必然性を失い、我々は奴隷を必要としなくなり、封建制度も不要となり、タイラントも要らなくなっている。
では、結婚は不要なシステムか?ぼくはそこには立ち入る気はない。が、従来どおりの結婚制度はいずれ瓦解するのは間違いない。小川氏が好むと、好まざると(というか、伝統的な結婚制度はすでにとっくに瓦解している)。
そして、同性婚はいずれ承認され、受け入れられる制度なのもまず間違いない。だれもそのことで迷惑することがなく、当たり前だと受け入れられる社会はやってくる。予言しておく。嘘だと思うなら、10年後辺りに本稿を読み直していただきたい。あ、もし残存していたら、新潮45の小川氏の文章も。小川氏の文章は歴史的資料として後世に残し、吟味してもらうための貴重な文献だとぼくは思う。
小川氏は困難を感じる主体が「社会に同調を強要し」とあるが、むしろ社会のほうが個人に困難を強要してきたというのがぼくの意見だ。そして、政治は個人の「生きづらさ」や「直面する困難」という名の「主観」を救える。小川氏の主題は間違っている。その証拠に、南アフリカの黒人や、米国のエイズ患者、、、その多くは同性愛者たち、、、は、社会の変化のおかげで以前よりはずっと生きやすくなり、困難も減っている。なくなってはいないが。それを救ってこその政治である。それが出来ないのは三流の政治に過ぎない。
小川氏は、「政治の役割は生命、財産、安全のような、人生の前提となる「条件」を不当な暴力から守る事にある」という。正論である。
しかし、その「条件」に当然加わるべきは、例えば「自由」であり「人権」である。なぜならば、多くの自由や権利が不当な暴力に侵されているからである。不当な暴力が人権を全く侵していないのならば、小川氏が言うように自らの人生は自らが決定すればよいのであり、国家権力などに頼らなくたってよいのである。
そして、非常に皮肉なことに、杉田氏とか小川氏を絶賛する連中の多くが、そのような不自由に苦しんでいる人々なのである。彼らは、よって他者を攻撃することによって鬱憤を晴らす以外に自らの苦痛を和らげるすべを知らないのだ。
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