忖度は必ずしも悪いことではない。外的に発動している限り。他者に対して心を配り、気を遣い、相手の気持を慮って行動する。これは日本独特の文化でも何でもなく、洋の東西を問わず英国のジェントルマンシップや孔子の教えにも見られる普遍的な善の態度であろう。
問題は、内的に発動される忖度である。インサイダーに対する過度な配慮である。こういう事例では資料出しちゃまずいから破棄したってことにしないと、みたいな態度である。役人は国益という名のもとで実は省益を優先させ(そして真の国益を損なっている)ことが多い。医学畑での医局のタコツボ化でもこういう事例はよく見られる。メディアの「配慮」も外的なものではなく、記者クラブのようにお友達集団になった仲間内での配慮である。
内的な忖度は思考停止を生む。神戸大では「なぜそうするのか」と問い詰めると「岩田先生、こういうときはそうするものなんですよ」とトートロジーな答えが帰ってくる。忖度しておけ、という暗黙のプレッシャーが大学ではよくかかる。ぼくは空気は読んでも読めないふりをするのが得意なので「は?なんですか?それ、規則に書いてあるの?」と平気でスルーするけど。組織の腐敗は過度な忖度の繰り返しに起因しており、それはいつしか思考停止やガバナンスの低下、倫理の低下、社会正義への説明責任の放棄を生む。現在の森友学園問題では関係者がその全てを生み出している。
忖度の態度は「質問できない態度」を産み、それは「考えることができない人」を産み、同調圧力をうみ、それはイジメの源泉となる。日本でイジメが多いのは偶然ではない。
そして過度な忖度は民主主義を放棄させる。過度な忖度はヒトラーの時代、毛沢東の時代、スターリンの時代、ポル・ポトの時代、要するに右も左も関係なく全体主義、独裁国家で広く普及した態度である。ぼくは右にも左にも興味はないが全体主義は嫌いだ。現在、日本が過度な忖度を普及させることで全体主義に近づいているのを実感し、それは危惧している。
忖度すべきは、他者に対してだ。学内、院内、学会内、医局内、あらゆる組織で内的な忖度は組織の腐敗と全体主義化を生む。組織の理念が高くてもそうでなくても関係ない。むしろ高い理念のもとでの全体主義ほどヤバイものはない。「本当にそれでいいんですか」「なぜですか」と構成員が繰り返し問い直す、真の意味での弁証法が機能している組織は強い。「ここで、あの人にそういうこというのはタブーだよ」と先輩が後輩に耳打ちするような組織はヤバイ。
朝走っていてふと考えた、内外から考える忖度の正体の話でした。
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