献本御礼。書評書いてましたが、「Medicina」に掲載されてブログアップの許可も得たのでこちらにも。
結論から申し上げる。ぼくは本書が大好きだ。かなり、シビレた。
監訳者である今明秀先生から本書の書評を書くよう依頼されたときは、正直、困惑した。ぼくは超音波のプロではないし、救急のプロでもない。FASTなんてやったことがない。ぼくが沖縄県立中部病院で研修していた時は、まだこのコンセプトはなかったと思う。その後はわずかな北京時代以外は外傷患者をケアする立場になく、その診療所はFASTを行うようなセッティングではなかった。とにかく、本書を論ずるにはあまりに場違いな立場ではないか。ぼくはまるで、青山通りをひとりで歩いているかのようなアウェー感をこの依頼に感じたのである。
しかし、本書を読んでぼくのアウェー感は霧散した。本書は「ぼくのために」書かれた本だったのだ。もちろん、著者たちには(訳者にすら)そのような意図は毛頭なかったと思うが、ぼくはそのような温かい呼び声「calling」を感じたのである。ぼくのアイドル、医師の理想像であるポール・ファーマーは講演のとき、聞き手一人ひとりが「私だけのためにポールは話してくれている」と感じさせる稀代の人たらしだが、ぼくは同じことを本書に感じたのだ。
本書は超音波を専門にする技師や医師のために書かれた本ではない。ぼくのように超音波に疎い、しかし「超音波使えたらいいよな」と思っている医療者のために書かれたのだ。本書は「10回の実施程度で術者はその症状について十分な検査ができるようになる」ことを目指した本なのである。これは素晴らしいことではないか。石を見つけたり、血栓を見つけたいとき、自分でプローベを持って調べることができたら、とてもハンディで便利ではないか。確かに専門家に任せればずっと精緻で膨大な情報をもたらしてくれるであろうが、夜間、遠隔地、あるいは被災地など精緻な情報の意義が相対的に目減りし、手近で即時的な情報の価値がずっと高いときに、このような痒いところに手がとどくような本がポケットに入っているのは素晴らしいことではないか。被災地の診療現場全てに放射線科専門医や超音波検査技師を配置するなど、ナンセンスなことなのだから。
ぼくが特に本書で感動したのは、「救急エコーの適応と限界」を明確に示したことにある。超音波技術に極めて優れた日本で、なぜオーストラリア人が著した本を訳さねばならないのか、そこも当初ぼくが訝しく思った点である。理解した。日本は技術に対する敬意が非常に高い国であるが、反面、批判的吟味は苦手な国である。超音波のテキストであれば、「こういうことができる、あんなこともできる」な本になる可能性が高い(それも名人限定)。あるいは、超音波が不要な場合にもこんなして使え、あんなして使え、の本になるかもしれない。しかし、正当な適応(と不適応)、それに理性あるリミテーションがあるからこそ、ぼくのような読者は安心して本書を活用できるのである。
本書の射程は長い。宇宙空間における超音波の活用が書かれている。超音波検査の未来が述べられている。そして、かっこよく、こうしめくくられている「聴診器も使えないような医師では、やはりUSも使えない」と。本書が極めて臨床的なテキストであることが、ご理解いただけただろうか。
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