いろいろな医療機関にお邪魔し、いろいろなドクターに会う。そのときの、まだ例外を見たことがない経験則がある。
「ぼく、感染症については分かってますよ」
とおっしゃるドクターは、例外なく、感染症診療がド○○だ(自主規制)、ということである。
これは、「分かっている」のレベルをどこに持っていくか、の問題である。
現在の日本の総理大臣は安倍晋三で、与党は自民党で、国会には衆議院と参議院があって、、、
こういう知識の所有者を、僕らは普通、「日本の政治が分かっている」とは言わない。むしろ、「分かっていない素人」だから、そういうレベルの知識を開陳している、と考えるべきだ。本当に詳しいひとは、こんな自明のことは口にすることすらないだろう。
同様に、感染症の患者をある数経験して、検査出して、薬出して、、、のレベルを「感染症が分かっている」と言ってはいけないのである。
感染症をまじめに勉強し、診療している人は、むしろ(こちらも例外なく)
「感染症は難しい」「感染症は分からない」
という。分からない、という自覚が「分かる」への最短の近道だ。
本書は、「相手が勝ち誇ったとき、そいつはすでに敗北している」から始まる本だ。編者がジョジョのファンなのね、で納得してはいけない(それもあるけど)。本書は「侮らない肺炎」についての本である。それは、「侮れる大多数の肺炎のなかの、例外的な難治例」と誤読してはいけない。肺炎(とその周辺、例えば心不全)は、本質的に「侮れない」のである。侮ったときが、敗北のときだ。そして、ぼくらは(これも例外なく)そのような苦い敗北の体験を持っている。
本書はあいまいさに満ちた本である。「自分なら」こうする、という表現が多い。ならば、「私ならこうする」系の書物かと思えばそんなことはない。学理は尽くされており、関連する文献はほぼ網羅的に引用されている。しかし、ほぼ網羅的に現存するエビデンスをスキャンしても、その先には果てしない「分からない」が存在する。そこまで絞りきったひとしずくの「自分なら」こうする、なのである。attitude beyond evidenceという多層的な作りの本書そのものも、侮ってはならないのだ。
ブレット方式の本書は非常に読みやすく、具体的で、臨床現場でぼくらが疑問に思いそうなポイントはほとんどすべて取り上げている。だから、「非専門医のため」というタイトルはミスノマーではない。しかし、感染症や呼吸器の専門家でも、「肺炎」は若干「侮られている」トピックである。もっと珍しい疾患や珍しい病原体の方が「セクシー」だからだ。しかし、本書を読んで、「ええ?そうだったの?」と驚く「専門家」も少なくないはずだ。だから、「専門医」も読んでよいとぼくは思う。肺炎をかなり勉強している専門家であれば、本書の内容はさほど「新規」の知識を与えるものではなかろう。しかし、個々の質問に対する、根拠となるデータそのものが全部頭に入っているひとは少ない(少なくとも、ぼくの頭には入ってない)。そういうときには、ブレット方式の本書をさっと開き、データを閲覧すればよい。
要するに、肺炎に関わるすべての医者(まあ、ほとんどすべての臨床医ってことです)が読んでも損はない本だということだ。「自分なら」が混じった本書なので、内容のすべてに首肯することはできないかもしれない。執筆者同士の内容の不一致も、ある(例えば、セフタジジムの用法)。が、それも含めての曖昧さを、本書は排除しない断固たる決意を固めた本なのである。
あ、あと編者のファンの方なら、本書は「最後まで」読み切ることをおススメします。映画のエンドロールのあとにくるサービスみたいなサービスが、得られるかもしれません。
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