日経メディカルに書評のようなものを書く機会を得た。許可を得て、ブログにも元原稿掲載します。
以前、ある書類をまとめたとき、「引用文献の形式が間違っている」という苦情があった。「正しい」形式を踏襲していないというのである。
その「正しい」形式とはバンクーバー・スタイルのことだったのだが、現実にはバンクーバーを採用しない学術誌はたくさんある。人文系の引用文献では「Ibid.」と書くことがあるが、これはibidemというラテン語の略で、前掲文献を繰り返し引用するときに用いられる。こういう習慣は医学者にはないが、文系上がりの編集者は医学系のように同じ文献番号を繰り返すと奇異に感じるらしい。件の書類は文献リストの書式を指定しておらず、そこに「正しい」スタイルなんて存在しなかった。ただただ、「私の世界が世界の全て」という狭量な「思い込み」だけがそこにあった。
些細な事例だが、このように我々が「正しい」「あたりまえ」「常識」「言うまでもなく」という事々は、ほとんどの場合、他者にとってはあたりまえでも正しくもない。医療・医学の世界でも、全世界的に「正しい」ことばかりとは限らない。いや、未来にまでまなざしを延ばせば、全世界的に「正しい」ものなんて、ほとんどない。
丸山眞男は日本のアカデミズムの狭量さを「タコツボ」と称した(「日本の思想」岩波新書)。医局制度を長くとってきた医学の世界では、特にこの「タコツボ」の深さは深く、隣のツボは見えにくい。大阪大学の総長であった鷲田清一先生には、他の学問領域に比べて医学部は極めて特殊に見えたそうだ。
現実の医学・医療の世界は、我々が信じ込んでいるよりも非常に広がりのある、実に豊かな世界だ。遠藤章氏が発見したスタチンを「ペニシリン以来のミラクル」な薬にしたのは、4Sという臨床試験である(Lancet1994;344:1383-1389)。ここに、基礎医学と臨床医学のどちらが高級かといった議論の不毛さが明らかになる。遠藤氏の長く粘り強い研究がなければスタチンは現前しなかった。4Sスタディーがなければ、その真の価値は明らかにならなかった。遠藤氏がいたから4Sが成立し、4Sがあったからこそ遠藤氏はノーベル賞候補なのである。その関係性は、一般相対性理論におけるアインシュタインとエディントンの関係を想起させる。
繰り返す。医療の世界は他者との対話で成立する、広くて豊かな世界である。そのことに我々はそろそろ気がつかねばならない。対話(ダイアローグ)はディベートではない。対話とは、相手を打ち負かすのが目的のディベートとは違い、相手の言葉を受けて自分が変わる覚悟ができているようなコミュニケーションである。我々の足下にある医療の世界の本質を、医療の世界の外にいる鷲田先生は我々以上にご存知である。それこそが「パラレルな知性」である。医療者が本書を読む必要性は、そこにある。
鷲田清一「パラレルな知性」晶文社
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。