今日のお話はこんな感じ。
ルードヴィッヒ・ウィトゲンシュタインは、世界は言葉でコードしつくせば、世界を説明できると考えた(と思う)。そして、言葉がコードできないことについては「沈黙しなければならない」と。
臨床診断もまた、病気という現象を言葉でコードする営みである。
しかしながら、カントが指摘するように、我々医師には現象そのもの(物自体)をつかみ取ることができない。できるのは断片的な「物自体」から醸し出されるあれこれの認識と、その言葉化だけである。
そのような断片を総合して、我々は「診断」という「現象のコトバ化」を行う。そこにはあれこれの欠落や省略がある。
ある現象の一群を集めて、それに名前を付けるのが診断病名である。
しかしながら、冷静に考えてみると、一つとして同じ現象はこの世には存在しない。全ては一回こっきりの、オリジナルな現象である。
教科書的な典型像は存在するが、そのような典型像でない現象の方が実は多数派である。テストの平均点が77点であっても、実際に77点を取る者が少数であるように。
その平均点をタイプ、個々の現象をトークンと郡司ペギオ幸夫は言った。我々医師が見るのはトークンであり、そこにタイプを透かし見る。しかし、タイプとトークンの関係は複雑で両義的で、とても分かりにくい。
オリジナルな現象を大きく一つにまとめる作業、折口信夫の言う「類化性能」を発揮させることが人間には可能である。しかし、それを可能にする根拠が分からない。
その根拠はあくまで恣意的である、という考え方が構造主義である。ソシュール、レヴィ=ストロースらが構築した構造主義は、意味されるもの(シニフィエ)とそれに相当するコトバ(シニフィエ)の関係のあり方が、恣意的だという。例えば、「肺炎」を「肺炎」と呼び、「そうでないもの」をそう呼ばない、その分水嶺は、「科学的真理」が決定するのではなく、我々の恣意性が(跡づけに)決定するのである。病理学的に、顕微鏡的にしか検出できない微小な肺の炎症(かつself-limiting)な現象は、我々に認識できないが故に「肺炎」とは規定されない。肺炎が起きているかどうかと、それを肺炎とよぶかどうかは別の話なのだ。
構造主義はレヴィ=ストロースが人類学的に観察した「冷たい社会」しか言及せず、歴史的ダイナミズムのある「熱い社会」を無視している、とポスト構造主義、例えば浅田彰らには批判されている。
確かに、病気の診断も基本的には「点」で行われており、時間のダイナミズムは見逃されやすい。身体診察、血液検査、画像診断も全ては「点」であり、時間情報についてはじつに貧弱な情報しか教えてくれない。これで失敗するパターンは多い(CTの画像を治療対象にしてしまう誤謬など)。
しかし、傷寒論では、太陽・陽明・小陽の三陽病期、太陰、小陰、厥陰(けっちん)の三陰病期の六経弁証という症候分類が可能である。よって、構造主義は時間経過にも応用することは可能である。世界の切り取り方の恣意性は、時間もこみにして考慮することは可能であり、それを実践したのが傷寒論(だと思う)。レヴィ=ストロースは「熱い社会」を語り得なかったのではなく、語らなかっただけなのだ(と思う)。
ところで、ロベルト・コッホが炭疽菌と炭疽の関係性を発見して以来、感染症の世界では「一疾患、一病原体」という概念が普及した。そこに「こと」である疾患と「もの」である病原体との混同が生じる。
典型的な誤謬はMRSA腸炎である。腸に炎症が起きる、そこにMRSAが見つかる、、、でMRSA腸炎と名付けるのである。MRSA腸炎はおそらく存在するが、それはごくまれな現象であり、このような安易な「一疾患、一病原体」の連結は好ましくない。
なにより恐ろしいのは、現象たる「疾患」をものである「病原体」にリプレースしてしまうと、病原体さえ見つけてしまえば現象を無視してよい「かのような」印象を与えてしまい、患者をきちんと見なくなってしまうことである。「もの」による現象の置き換え、そして現象そのものの無視、はCRPに典型的である。CRPの最大の問題は、それがどれだけの感度・特異度を持っているか、といった通俗的な議論ではなく、CRPが1になった、5になったと一喜一憂している医者は、ほとんどの場合、患者をきちんとみていない点にある。CRPなんて日本円みたいなものだ。1円が5円になって喜ぶバカがあるものか(ちなみに血小板はユーロかドルだ。3万ユーロが1万ユーロまで下落すれば、多いに狼狽えるべきである)。
ときに、コッホの素朴な時代には「一疾患、一病原体」でよかったのだが、21世紀の今はそういうわけにはいかない。同じレジオネラでも、抗菌薬でも治療に難渋する肺炎と、自然治癒するポンティアック・フィーバーは「別現象である」。溶連菌による咽頭炎と丹毒とTSSと壊死性筋膜炎と腎炎とリウマチ熱は「別」である。肺炎もCURB65の1点と5点では「まったく別」の現象であり、同じ肺炎球菌でも中耳炎と肺炎と髄膜炎では治療薬の選択も治療戦略も大いに異なってきている。
したがって、モノによって「こと」にリプレースしていた感染症を「こと」そのものの観察に戻していくことが重要になる。その現象がきちんとコトバで近接できていれば、それが東洋医学的な呼称であれ、西洋医学的な呼称であれ、問題にはならない。
ところで、後期ウィトゲンシュタインでは、世界をコトバでコードできる、という信憑はあまりに素朴であり、実際には各自が全然異なる現象を想起しながらコトバを用い、かつコミュニケーションはなんとなく通じているのだと指摘される。
熱が出ているだけで「上気道炎」と称され、CRPが高いだけで「感染症」とか「セプシス」とかザックリな名前をつけていることが多い。ここでいう「上気道炎」は実は(ぼくのいう)上気道炎ではない。
欠落の多い現象のコトバ化をいかに現象そのものに肉薄できるかが、今後の課題である。現象そのものに肉薄すればするほど、治療もより精緻になっていく。
精緻に分類するには、折口信夫的には、「別化性能」の発動が重要になる。
診療医は、類化性能と別化性能という、まったく逆方向のアクロバティックな認識作業を同時進行的に行わねばならないのである。
しかし、それは例えばワインテイスティングでも行われていることであり、(理由はよく分からないが)、それほど無理な作業ではない。
傷寒とは外部からの因子によって引き起こされる外感病全般である。インフルエンザとかチフスのことだ、と説明されることもある。しかし、傷寒という概念も恣意的な概念であり、現代医学の西洋の名称と1対1対応していなければならない根拠はないし、たぶん、そうではない。
例えば、陽明病は「身熱し、汗自ずから出て、悪寒せず」「脈遅」などは腸チフスを想起する。急性疾患(太陽病)の後で生じるところはリウマチ熱を想起する。急性に黄疸が生じれば急性肝炎、レプトスピラ、住血吸虫症などのことが多かったろう。
腸チフスとリウマチ熱では治療法が全然異なる。太陽病と太陰病の治療が異なるように。
大事なのは治療が上手くいくことである。そこがスタート地点であり、そこから逆算して方法論が決定される。
恣意的な病気の分類も、目的をみすえ、そこから逆算して行われるべきである。腸チフスとリウマチ熱を混同しないように、太陽病と太陰病を混同しないように。
このような恣意性の多様な見方を複眼的に行うことができれば、もっともっとリッチな診療が可能になるのではないか。それが患者に取って福音となるのではないか。
日時:平成25年9月29日(日)午前9時20分~12時30分
会場:神戸大学シスメックスホール
http://www.kobe-u.ac.jp/info/outline/facilities/sysmexhall/map.html
内 容 a)漢方基礎講座(9:20-10:20) 講師:兵庫医科大学皮膚科学講座准教授 夏秋 優 演題:感染性皮膚疾患の診断と漢方治療 b)症例報告(10:20-11:20) 気管支拡張症の急性増悪時に温補剤の併用が有効であった例 堀江延和 中耳炎後の耳閉・耳鳴りに大柴胡湯合香蘇散が有効であった一例 北村 順 急性ウイルス疾患の漢方治療 山本周平 感染症疑いから慢性疲労症候群との診断に至り漢方治療が奏功した一症例 西本 隆 c)特別講演(11:30-12:30) 講師:神戸大学医学部感染症内科教授 岩田健太郎 演題:「構造と診断 感染症の21世紀的世界観 東洋医学会兵庫県部会バージョン」
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