以下、私的なメールを編集してブログにアップします。論旨はこういうことです。
今回の松江市教育委員会の「はだしのゲン」閲覧制限については、私は反対の立場をとります。誠に失礼とは存じますが、そのことを申し上げたく、メールを認めた次第でございます。
自分たちの小学校修学旅行先は広島でした。松江市教育委員会に先日確認したところ、現在でも多くの小学校は修学旅行先を広島にしているそうですね。例外なく平和公園に行きますし、平和記念資料館にも参ります。そこには、マンガ以上に残酷な記録や写真が展示されています。「はだしのゲン」そのものも展示されていたと記憶しています。現在でも、原画展が行なわれているそうですね。
また、私の記憶が確かならば、小学校で行われた映画会のひとつは「はだしのゲン」(実写版)であったと思います。この映画にどのくらいの残酷なシーンがあったかはもう記憶しておりませんが、いずれにしても松江市では平和教育、そして原爆のような兵器の愚かな使用がいかに残酷な営為であるか、子どもたちにしっかり教えているのだと思います。広島に隣接する島根県には被爆者が今も暮らしており、治療を受けています。我々にとって「原爆の問題」は当事者の問題であり、傍観者の問題であってはならないはずです。
全員参加の修学旅行でこのような情報への曝露をしておきながら、自由閲覧の図書館に制限がかかるのは矛盾です。市の教育委員会の方によると、修学旅行前には授業で十分に準備をしているとのことですが、それならば中学校での制限はあきらかに矛盾ですし、高学年には自由閲覧が認められるべきです。図書館においては、本棚の配置の高さやコーナーへの設置の工夫で低学年の目に触れにくいような配慮はいくらでも可能です。
教師と一緒に閲覧するのは問題無いという意見もありますが、読書というのはそのような検閲的、監視的な環境で行うものではないと考えます。行きつ戻りつ、ときには立ち止まりながら、あるいは繰り返し、自分のペースで読めるのが読書の読書たる所以で、国語の授業と同じようなやり方では堅苦しくて読書は楽しめません。ときに大人の目には残酷、背徳的と思われる表現、表記に後ろめたい気持ちで、心臓をドキドキさせながら読み楽しむのも、また読書だと思います。
現在のようなネット社会において、目的をもって特定の本を探す意味での図書館の役割は減じています。図書館に行って目指す本がないこともあり、ネットのデータベースで検索したほうがはるかに容易だからです。そのような図書館のあり方であれば、カウンターと司書、検索端末があればよいわけで、本は倉庫にしまっておけばよいのです。しかし、図書館という「場」にいるとき、偶然出会う本との邂逅は、アマゾン・ドット・コムでは得られません。そのような偶然の邂逅の自由も、申請・閲覧という規制は奪ってしまいます。本棚にたくさん並んだ書物に囲まれている、そのことそのものに意味があるのです。
エログロの表現はバタイユにも澁澤龍彦にも泉鏡花にも三島由紀夫にも見られます。古事記などの古典においてもおおらかな性描写はあちこちに見られます。村上春樹や綿矢りさにも見られます。それは表舞台の授業では教えられませんが、図書館という「場」において開示されています。多くの思春期の男女がこうした本から性を学んだはずです。あるいは暴力の暴力性を学んだはずです。私の経験では、図書館にこもって本を愛好する生徒はいじめっ子であるよりいじめられっ子である可能性が高いと思います。図書の暴力的な表現は暴力の否定抑制にも作用し、その逆にはならない可能性が高いです。後述するように暴力の無視は暴力を抑制しません。図書館に収められている本は、すべてが道徳的に模範的な本とは限りませんが、そのような余剰が担保されているからこそ、そのような「のりしろ」があるからこそ、豊かな人間性を涵養する機会が増しているのだと私は信じます。
報道で伝え聞くところによると、そしておそらくそれは正しいものと私は推測しますが、今回の規制のきっかけになったのは政治的なある傾向を持つものによる要請がきっかけになったものと思います。「はだしのゲン」にある種の政治性を見出すのは容易ですし、それに賛成する人も反対する人もいると思います。しかし、一定の政治的傾向を否定することは、たとえその政治的傾向が妥当でないと判断されている場合でも極めて危険な判断であり、そういう理由で図書館から書物を排除、制限することは好ましくないと考えます。私の母校の図書館には今でもヒトラーの「我が闘争」や「毛沢東語録」、スターリンの回想録などが収められていることと思います。ヒトラーは世界のほとんどの社会で否定される存在ですが、しかし彼の書いたものそのものを否定したり排除すれば、それはナチスドイツがかつてたくさんの書物を焚書にしたことの模倣になってしまいます。その本がどういう政治的性向を持っていても、それを閲覧する自由そのものを排除することがどれだけ危険であるかがここからも分かります。ヒトラーの書いたものを自由に読め、また読むことだけがヒトラーのあり方を否定することにつながるのです。それはミルが以下のように書いたとおりです。
正当と見なされるような結論に結びつかない探求をいっさい禁止すると、もっとも傷つくのは異端者の精神ではない。最大の被害者は、異端ではないひとびとである。ひとびとは異端者とされることを恐れて、精神ののびやかな発展をすべて抑制し、理性の働きをすくませる。*
ミル「自由論」(光文社文庫、齋藤悦則訳)
私は医学教育のため、現在毎年のようにカンボジアに参ります。ご存知のようにカンボジアではポル・ポト派による知識人の粛清のため、教師や医師などが何百万人と殺されてしまい、文字や言葉や知識が完全否定されてしまいました。殺したのは十代前半のクメール・ルージュの子どもたちでした。クメール人は普段は温厚でおとなしく、彼らがあのような残虐な殺戮を行ったというのは実に不思議な感じがします。が、どんなにおとなしくて温厚な人でも残虐な行為を平気で行うことが可能であり、そのことはアイヒマン実験が実証しています。上述のように、残虐性から目をそらしているだけでは残虐性は回避できず、残虐性を積極的に否定することだけが、残虐性を抑制することを可能にするのです。
私は感染症のプロとして性教育を中学生や高校生に提供しています。本当は小学生にも行いたいのですが、日本の性教育環境の遅れからそれが容易になりません。子どもたちにショックを与えないように、と性教育には様々な規制、抑制が課せられますが、そのせいで望まないセックス、望まない妊娠、望まない性感染症、望まない性暴力の被害に遭い、それこそ取り返しの付かないショックを受けた形で私の外来に患者となってやってくるのです。規制的な「大人の子どもに対する配慮」はもちろん必要なことですが、ときにカウンタープロダクティブなものにもなるのです。
以上、医者として、教育者の端くれとして、同郷のものとして、思うところを記しました。多くは教育学的に常識であり、釈迦に説法であることは重々承知いたしております。立場上様々な調整が必要で、そう話が簡単でなかろうことも国立大学の職員として想像するところでもあります。失礼の段は重ねてお詫び申し上げます。しかしながら、島根県は、そして松江市は、教育上、外的圧力に不当に屈することはないこと。そして誤りがあればそれを率直に認め、訂正する勇気と知性を持ち合わせていることを、それを自信をもって自慢できることを、こころから希望しています。島根県民として、松江市民(あるいは宍道町民)として誇りを持てるような教育が、故郷で十全に提供されることを、心から希望しております。
末筆ながら、酷暑の続くなか、体調を崩されませんようお祈り申し上げます。
岩田健太郎
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