献本御礼
大学病院の感染症内科外来をやっていると、半分近くは感染症でない患者がやってくる。その多くは心身症だったり、各種疼痛症候群だったり、IBSだったり、ボーダーライン・パーソナリティ障害だったり、感染症ノイローゼだったりする。
本書はこうした通常の診断ー>治療プロセスがうまくいきにくいケースのケーススタディーとしても面白く読める。事例研究の科学における立ち位置を学ぶという意味で読むこともできる。科学の科学性はどこで担保されているのか、という理路としても読める。M-GTA(modified grounded theory approach)や、あるいはナラティブ・メディスンの勉強としても読める。本書が科学のパラダイムの多様性を主張するように、本書の読み方も重層的、多様に読むことが可能であろう。
ぼく自身は夢分析も精神分析もカウンセリングもできないし、認知行動療法はさわりだけ勉強したけど、素人が手を出すとやけどするなあ、と思いながら躊躇している。ただ、本書で紹介されているような非個人的心理療法(222ページ)は外来でよく実践している。それは、
操作的定義:意識の表層にも真相にも同時にかかわり、外的現実のこまごまとしたことをすべて大切にしつつ、同時にそれら一切にあまり価値をおかないような、矛盾をかかえこんだ態度によって行われる心理療法
実践の特徴と治療者の基本姿勢
1)患者の主体性と自律性を尊重し、そこに表現される内容を共感しつつ受け止める。
2)因果論的な病態理解を重視しない。
3)治療者による患者・環境への操作を最小限にする。
4)治療経過において生じてくる矛盾、二律背反を性急に解決したり統合したりしようとせず、そのまま抱えて待つ姿勢を重視する。
5)イメージとその表現媒介(夢、描画、箱庭など)を重視する。
6)物語を語ること、あるいは物語をして語らしめることを重視する。
7)事象の非因果的連関(布置:コンステレーション)を読み取ることを重視する。
8)治療者の主観的体験を患者の体験と同様に重視し、治療過程を相互変容の過程とみなす。
このうちぼくがやってないのは5)だけ。7)については因果と非因果の区別が困難であることから積極的には「語らないこと」にしている(たとえば、「なぜカテ感染が起きたのか」という「因果」は実は非常に語りにくいことを悟れば、通常の医療にも適用できる)。現実には摂食障害や疼痛症候群、「感染症ではないか」という不安に取り憑かれている患者への対応は極めて難しいが、全体としては本書にあるアプローチ(プラス漢方も含めた処方)をとることが多い。
本書で紹介されているSingle case modified grounded theory approach(239ページ)は、西條剛央さんの「構造構成主義」的には全然ありなアプローチだ。録音しないで研究者の記憶から再構成するアプローチも現実にそったアプローチで、とても興味深い。
ただし、本書はナラティブの限界や制限にも自覚的である。「痛みは語られうる」が、「痛みには必ず語りきれない部分」もある。(174ページ)。それはカントの「物自体」ともいえるし、ウィトゲンシュタインの言語ゲームの成立条件とも言える。現象は語り尽くせないし、語られ、コトバ化された現象は、聞き手によって恣意的に歪められた現象だ。会話が成立するのは、あくまで言語ゲームのルールにのっているからだけなのだ。
私見だが、ときにナラティブの実践者は、しばしば意識的、無意識的に患者を美化する傾向がある。ナラティブを美談にしてしまうのだ。患者もまた、自分の物語を美談にしてしまうことがある。悲劇の主人公になりたいからだ。Dr.ハウスが言うように、患者は嘘をつく。患者は人間全てのランダムな抽出物だから、当たり前のことだ。
美化や嘘や誇張や自己正当化や自己卑下など、過剰なドラマ化、物語のインフレをどうナラティブが払しょくするのかはぼくにはよく分からない(そのへんの議論を寡聞にしてまだ読んだことがない。患者の話はそのまま傾聴し、受け止めるというのが基本だから「疑う」アプローチそのものが否定されているのだろうか)。が、患者にコミットしつつデタッチするというアクロバティックな態度がないと、単なる患者の偶像化と、患者が創りだしたフィクションの理解者(一種の映画評論)になって終わってしまう。
事例研究は科学研究足りうるか。答えはイエスだとぼくは思う。しかし、そこにはためらいのまなざしも必要だ。最近タランティーノの「ジャンゴ」を観た(以下、ネタバレあり)。レオナルド・ディカプリオ扮する悪役が、骨相学の講釈をする。骨相学的に黒人は白人に隷属する傾向がある、という「科学」を説明する。南北戦争前は、このように黒人は白人に劣っており、奴隷になることを自ら望んでいるのだ、という「科学」が常識であった。「メタフィジカルクラブ」が看破するように、それはハーヴァードなどの北部でも同様だった。ヘーゲルは「精神現象学」で骨相学を「諸規定の没概念的で恣意的な予定調和」と批判した。事例研究もこのように観察者、研究者の主観による「諸規定の没概念的で恣意的な予定調和」になってしまうリスクをはらんでいる。そこをどう克服するか、は極めて難問だ。が、少なくともそのような「予定調和」のリスクには自覚的であるべきだ。
もっとも、ポジティビズムが独占的な医学の研究においてだって問題点はたくさんあるわけで(ディオバン事件を見よ)、問題点の存在はその概念の否定理由にはならない。
瑕疵の存在は問題ではない。瑕疵の存在にどこまで自覚的になれるか。ナラティブという美しい言葉で全てをチャラにし、患者の物語を美談にして満足しないクールさがあるか。そのようなクールで熱い態度を取り続ける自分にどれだけ懐疑的になれるか。
「こころとからだの和解」「未組織の病気」など、本書は魅力的なフレーズで満ちている。河合隼雄との対談、というボーナストラックもついています。
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