リビング・ウィルという言葉があります。アドバンス・ディレクティブという言葉もありますが、まあ、ほぼ同義と考えてもよいと思います。
リビング・ウィルの方法はいろいろありますが、ぼく個人は「将来、万万が一大きな病気になって、口がきけなくなって、死にそうになったとき、いわゆる延命治療みたいなのをご希望ですか」というざっくりな聞き方をしています。具体的には心臓マッサージ、人工呼吸器、そして胃瘻などが対象になることが多いのですが、なかなか細かい話をすると、逆にイメージしにくいからです。
で、以前行ったアンケートでは、約70%の人が、「いわゆる延命治療」を希望していませんでした。逆に、30%の人は希望しています。(家庭医療(1340-7066)14巻2号 Page18-24(2008.11)。
ちなみに、最近厚生労働省が行ったアンケートでは、約4割の人が延命治療を望まないそうです。これは一般の人に聞くか、病院に通院する人に聞くか、あるいは「聞き方」とか対象、聞き手との人間関係なんかによって異なってくると思います(http://zenback.itmedia.co.jp/contents/yuigon.info/news/?p=792)。
まあ、「数字がどうか」は、ここでは問題ではありません。問題は、世の中には「延命治療を望む」派と「そうでない」派がいる、ということです。
ぼくには、忘れられない苦い思い出があります。ある「終末期」にある患者さんが、急な重病になって、今にも死にそうになりました。患者さんは口をきけません。ぼくらは点滴をし、酸素を投与し、あれやこれやの治療を行い、ここで「人工呼吸をしようかどうか」と考えます。
ところが、この患者さんの主治医は、患者さんにリビング・ウィルを聞いていませんでした。こういう状況で、患者さん自身が人工呼吸器の使用を望んでいるか、望まないかは、誰にもわからない状態でした。
しかし、日本の場合、一旦人工呼吸器を始めてから「やめる」という選択肢は残されていません。やるか、やらないかはこの場で決めなければいけない。待ったなしなのです。
結局、バタバタする医療現場で、オロオロする家族に、大慌てで事情を説明し、まるで引きちぎるように家族から「意志」を聞き出しました。その間、エアウェイという気道の通り道を作る道具をつかったり、いろいろ姑息な手段もとりました。いずれにしても、終末期にあったその患者さんの人工呼吸を家族は希望せず、ぼくらはその後、その患者さんを見送ったのです。
ああいう、切羽詰まった場所で患者や家族に無理矢理の意思決定を迫るというのは実に残酷な話です。ぼくはあのような体験は二度としたくない、と思いました。なので、患者さんには「自分の終末期をどう過ごしたいか」考えていただいているのです。
リビング・ウィルについては根強い反対論もあります。これが、「弱者切り捨て」の免罪符となり、医者が患者の治療を継続しない言い訳にする、という懸念からです。
例えば、ALS(筋萎縮性側索硬化症という難病)患者会の川口有美子さんは大野更紗さんとの対談で次のように述べています。
「「リビング・ウィル」など、自己決定権を行使して一筆書いておけばその通りに死なせてあげましょうという法律が今超党派の議連で検討されているんですが、すごく危ないと思っています。患者の気持ちは揺れるのに」とおっしゃっています。「尊厳死というのは、周りの人から何を言われても自分で決めたのだから、絶対死ぬんだという決意を貫き通せという話です」とも(「現代思想」2012年6月号)。
ALSは比較的珍しい難病で、筋肉が動かなくなる病気です。人間の呼吸には筋肉の動きが必要なので、ALS患者の多くは自分では呼吸ができなくなり、従って人工呼吸器を必要とします。その人工呼吸器は、一度着けられると、もう外さない、が日本の原則です。リビング・ウィルの骨子は「人工呼吸器を着けないという選択肢」を提供しましょう、ということなので、(ALS)患者切り捨てにつながるのではないか、という懸念が川口さんのような立場の方に起こるのは、当然だと思います。
川口さんは言います。
「すぐに救命すれば助かるはずの人が、本人の十全の意思を確かめたり、家族が呼吸器治療に躊躇することで手当てが遅れ、かなりの数それで悪化したり、亡くなったりしていくのではないでしょうか」(前掲)。
おっしゃるとおりだと思います。しかしながら、それを回避するための手段がリビング・ウィルに他なりません。僕らが(そして患者の家族が)体験したような理不尽な仕打ちを回避するために、リビング・ウィルは必須なのです。
川口さんには若干の誤解があるのかもしれません。リビング・ウィルはいついかなるときにも撤回可能です。それは口頭でも可能です。目配せでも可能です。したがって、「決意を貫き通す」必要はありません。
これは、医療における全ての決断においても同様です。検査に同意した患者さんも、服薬に同意した患者さんも、手術に同意した患者さんも、あるいは臨床試験に参加した患者さんも、いついかなるときにも、どのような理由であってもその決断は撤回可能です。逆に、そのような行為に「不同意」であったとしても、「やっぱり検査します」とひっくり返すことも可能なのです。
同じ対談で、川口さんと対話した大野更紗さんは「ヘルスケアやケアの臨床の生とは、かくも多様です」と述べています。筋膜炎脂肪織炎症候群と皮膚筋炎を発症し、なんども入院体験がある彼女が観察した、同室の患者像が「多様」だったのでしょう。
おそらく大野さんよりもたくさんの患者さんを見ているであろう、僕の感想も同じです。患者はかくも多様であり、それは患者が人びと全体の抽出なのを考えれば当然です。人は多様なものであり、多様な生き方があるのです。そして、多様な終末期の迎え方があってもよいとぼくは思います。
大野さんはリビング・ウィルのしくみによって死がマニュアル化されてしまうことを危惧します。しかし、現状の「危機に陥ったら人工呼吸器」も「いったん人工呼吸器は、一生人工呼吸器」も、まさに他に選択肢のない画一的な行動です。それは一種の「マニュアル化」に他ならないのではないでしょうか。
とはいえ!
リビング・ウィルとか尊厳死という概念が、「切り捨て」を連想するのも、理解できる感情です。そこで、ぼくは「尊厳死」というよりも、「終末期医療」というよりも、より一般的な医療のあり方、医療の倫理という考えにストレッチしたほうがよいと思います。そうしないと、誰をもって「終末期とするのか」という終わりのない論争になってしまうからです。
人間は必ず死にます。ある年齢を超えると、肉体も脳も衰えていく。ぼくなんかも、男性平均余命を超えており、すでに折り返し地点通り越しています。日々自分の頭脳と肉体の衰えを実感しています。
「生きる」ということそのものが、不治にして回復不能な病です。我々は毎日毎日、ゆっくりと死に向かっているのです。例外なく。
では、「終末期」とはなにか。我々全てが回復不能で、死を免れることができない以上、それは「程度問題」に他なりません。
ぼくの感覚だと、何年も生存可能なALS患者は「終末期」だとは思いません。が、これも主観でして、ゆっくりと進行していくこの病気をそのように解釈する人もいるかもしれません。ここで論争してもそれは「主観」の問題なので、詮ないことです。
ですから、議論すべきは、患者の「撤回可能性」だけだとぼくは思います。
例えば、心筋梗塞になった患者さんにとって、アスピリンは寿命を伸ばしてくれる治療薬です。もし、患者さんが「アスピリンを飲むのはもう嫌だ」と薬を飲んだり病院に行くのを止めてしまえば、それは延命効果のある治療を止めてしまうので、一種の「延命拒否」という事になります。もちろん、その「延命拒否」はゆるやかなもので、アスピリンを飲むのを止めた次の日に死んでしまうわけではありませんが。
で、ぼくら医者は、たとえ延命効果が減じても、患者の決断をより優先させます。患者が拒否しているのに、「無理やり長生きさせる」ことは許されていないのです。
糖尿病でもエイズでも、どんな病気でも、あるいは喫煙でもそうですが、延命よりも患者の自己決定のほうが(「自己決定」ということばを嫌悪される方もおいでかもしれませんが、「患者の意思」といいましょうか)より優先されるのです。ま、そこには対話や議論や説得はありますが。
であれば、「人工呼吸器」という方法が、特権的に「患者の意思」より優先される「何か」を持っているのは、どうしてでしょうか。撤回可能性が否定されているのはどうしてでしょうか。
人工呼吸器はあくまでも医療のツールに過ぎません。ツールは使い方次第なので、同列には扱えません。手術の前の人工呼吸器と、「生活の手段」となっているALS患者の人工呼吸器と、苦痛に苦しむ末期がん患者の人工呼吸器では「使われ方」が違います。それは文脈ともいえますし、「ナラティブ」とも言えましょう(会田薫子「延命医療と臨床現場」東京大学出版会参照)。ここでも、一律に「マニュアル化」するのではなく、患者と医療者との細やかな対話が大事なのではないでしょうか。
「人工呼吸器」が一般医療の1ツールにすぎないこと。その使われ方は個々の患者で異なること、患者の意見は一般的に撤回可能性が担保されていること。人工呼吸器という医療の1ツールだけ、それが否定されるのは奇妙であること。そう考えれば、この問題に一筋の光が見えてくるように、ぼくは思います。
次回は、この延長線としての「胃瘻」について考えてみたいと思います。
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