胃瘻の「瘻」は「ろう」と読みます。難しい漢字ですね。手元の「漢語林MX」によると、この漢字は「一 瘰癧、二 背の曲がる病気。また、その病気にかかっている人」のことだそうで、ちなみに瘰癧とは結核性リンパ節炎のことだそうで、なんでこの漢字が当てられたのかは、ぼくには分かりません。
胃瘻は簡単に言うと、お腹に穴を開けて、そこにチューブを通して、そのチューブが直接胃につながっているというものです。口からものを食べられない人が、お腹から直接栄養を提供できるようにしたものです。
その胃瘻の是非もよく議論されています。前回も紹介した会田薫子「延命医療と臨床現場」(東京大学出版会)にも、胃瘻の是非が、とくに延命治療と絡めて長く議論されています。
「人工呼吸器」が医療の一ツールにすぎないように、胃瘻も医療の一ツールに過ぎません。ですから、ぼくは「胃瘻の是非」という命題ではなく、別の問いのたて方をすべきだと思います。
それは、「誰に」「何のために」胃瘻を使うか、です。
ぼくのかつての患者さんで、慢性のカビの感染症(chronic necrotizing aspergillosis)に苦しんでいる人がいました。ありとあらゆるカビを殺す薬を使いますが、どうしてもよくなりません。
さて、この患者さん、喉の病気があってものを飲み込むのがとても苦手な患者さんでした。食事を摂ると食べ物が間違って肺に入ってしまい(誤嚥と言います)、しょっちゅう肺炎を起こしていました。ご飯が食べにくいので、ひどくやせ衰え、栄養不足の状態でした。
あるとき、この方に「胃瘻」をつけてはどうか、という話になりました。ぼくも実は、「胃瘻は終末期医療のツール」と思い込んでいたので(不覚!)、そういうアイディアが出ていなかったのです。で、この患者さんに胃瘻をつけたら、みるみる栄養状態がよくなってきて、ふっくらしてきて、元気になりました。肺炎も起こさなくなりました(胃瘻で肺炎を起こさなくなる保証はないのですが、少なくともこの患者さんに限定すると起こさなくなりました)。そして、なんとビックリ。あれだけ薬を使っても治らなかったカビの感染症も、なんの薬も使わないのにみるみるよくなっていったのです。ベータDグルカンとガラクトマンナンという2つの血液検査で、そのカビの感染症は評価しますが、抗生物質を使わないのに両者がみるみる下がっていったのは、ぼくも本当にびっくりしました。
栄養状態は人間の免疫能力とシンクロしています。栄養不足になると、免疫力も落ちるのです(たとえば、免疫グロブリンという免疫力は「タンパク質」という栄養からできていますから、当然といえば当然です)。免疫力が低いと、どんなに抗生物質を使っても感染症が治らない時があります。そして、免疫能力さえ十全にあれば、たとえ抗生物質がなくても、、、というわけです。
こういう患者さんにとって胃瘻は延命行為でもなんでもなく、「単なる医療行為」に過ぎません。そこに議論が生じようもありません。少なくとも、ぼくは議論の余地なし、と感じます。
というわけで、胃瘻の議論は「だれに」「なんのために」が大事なのです。そして、それが「延命」が目的になったとき、初めてその延命の是非が議論されるべきなのです。「胃瘻の是非」ではなく、というのがポイントです。
ところで、ぼくも不勉強だったのですが、ALS患者にも早期に胃瘻を行なうと、呼吸状態がよくなり、病気の進行も遅くなるのだと、都立神経病院の清水俊夫先生に先日教えていただきました。なるほど、呼吸は筋肉の力で行われ、筋肉もタンパク質からなっていますから、言われてみればその通り、と思います。ALS患者の栄養管理はとても難しくて、普通の人よりたくさんカロリーが必要な時期と、そうでない時期があるんだそうです。栄養管理も(感染症同様)、知識と技術と経験が必要で、やっつけ仕事はダメなんですね。
そういうわけで、ALSにとっても胃瘻は治療の一ツールで、いわゆる「延命のツール」とは呼べないことが分かりました。そして、そういう文脈で、このツールの妥当性、是非が議論できるというわけです。
とはいえ!
胃瘻のついた患者さんを見て「エイリアンみたい」と言った政治家がいるそうです。
審美感の問題は「主観」の問題であり、「好悪」の問題であり、「是非」の問題ではありません。したがって、当然政治家の先生が議論する対象でもありません。政治家は「好み」を議論する職業じゃないですから。少なくとも理念的には。
逆に、患者にとっては、「好悪」の問題は重要です。ガンの化学療法で頭髪が抜けるのを嫌がる患者さんはいて、そのことは患者にとっても医者にとっても重要な論点で、無視してはいけません。同様に、胃瘻を感情的に嫌がる患者さんがいても、それは大事な主観であり、医者もその感情を無視するべきではありません。
このように、「好悪」の感情は個々のケースでは重要ですし、公共の議論では不適切です。その議論が「好悪」の問題なのか、「是非」の問題なのか、ぼくらはしばしばゴチャゴチャにします。「好悪」の問題が適切である問題なのか、「好悪」の問題が不適切な問題であるのかも、多くはグチャグチャです。
議論というのは各論的に、ちゃーんとあれとこれを区別して、クールにリアルに行わなければならないのですね。
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