最近、考えていること。感度と特異度、そしてそこから導き出される「らしさ」(つまり尤度比)は、すべて二元論的世界観を基盤としている。あるか、なしか、が問題だ。
しかし、身体診察は「あるか、なしか」ではない。露骨な心雑音、露骨なクラックルから微妙な心雑音、微妙なクラックルまで連続的なgradientがある。そのgradientを無視して、所見がある、ないという二元論的世界観でぶった切ってしまうと、ほとんどの身体診察所見は「意味が無い」と解釈されかねない。
思い出されるエピソードがある。ぼくはニューヨーク市で内科研修医をしていた。「原因不明の」腹痛患者という触れ込みで、ある高齢女性患者が救急部から紹介され、入院となった。ぼくが診察すると、この患者の腹部にはゴリゴリのマスがあった。「誰の目にも」腹腔内腫瘍多発メタは明らかだった。ぼくは紹介してきた救急医に詰問した。お前は腹痛患者の腹部診察すらせずに、「原因不明」の腹痛として内科に患者を投げつけたのか、と。ふてくされた救急アテンディングはこういった。腹部触診をして腹痛の予後が良くなる、というエビデンスはない、と。
ぼくは、「そういうエビデンスがないのは、そういう下らないリサーチクエスチョンを考えるほどみんなが(お前さんのように)愚かでないからだ」と返答した。愚かで醜悪な悪意ある態度には倍返し、がアメリカでも日本でもぼくの対応法で、今もそれは変わっていない。
このような「露骨な」所見について、当然に身体診察所見はパワフルである。思うに、オスラーとかの時代にはこのような「露骨な所見」だけが相手にすべき所見だったのだろう。
露骨が露骨でなくなる時の境界線が、人によって異なる。その境界線を伸ばしていくのが臨床医の鍛錬の主眼である。そこで、感度がどうの、特異度がどうの言っても、議論は上滑りするばかりである。
二元論的基盤に乗っかった(χ二乗とかフィッシャーとか、みな二元論だ)、統計学的分析はgradientを相手にする身体診察に、、、いや、病歴聴取においてもうまくフィットしない。ここに気が付かないと、身体診察のファンダメンタリスト的メンタリティー、サパイラ的メンタリティーとEBMは噛み合わない。そういう自覚のもとで、LRのような数字を扱うのである。
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