よく、シニアの先生から「基礎医学の研究をした経験から、論理的に考える方法を教わった。学位はやはりとったほうがよい」というお言葉をいただく。
その言葉に偽りはないと思う。しかし、現代においては、基礎医学の研究体験が「論理的思考法」の学習として診療に活かされる可能性は限りなく低い。
1980年くらいまで、つまり、プレEBMの時代であれば、基礎医学的知識はそのまま臨床医学に活かすことができた。基礎と臨床の距離は近かったのだ。というか、臨床医学はあまりに低く見られており、基礎医学的知見が丸のままで臨床医学に応用されることが許容されていた時代といっても良い。炎症が起きているのだから、炎症を抑えるステロイドパルス、好中球エラスターゼが問題なのだから、ARDSに好中球エラスターゼ阻害薬(エラスポール)、血糖が高いから血糖を下げる、熱が高いから、熱を下げる、炎症があるとCRPが上がるから、CRPが高いと抗菌薬、、、というスタイルの演繹法が跋扈した。そこには演繹法的論理はあったが、帰納法的検証は皆無であった。今でもこのような1980年代的医療は現場で行われている。先日、細菌性髄膜炎を発症した青少年に炎症が高いという理由で「ステロイドだけ」投与されたケースを耳にした。僕が絶叫、絶句しそうになったのは言うまでもない。
21世紀の現在、基礎医学の知見を臨床現場に持っていくトランスレーションの距離はかつてないほど遠くなっている。基礎医学の発見は直接臨床現場にはもっていけないし、そこに至るまでには大変なハードルの乗り越えを必要とする。ハードルを乗り越え切れずにポシャってしまうことも珍しくない。iPS細胞が診療現場で応用される日はいつのことだろうか。
それは、もちろん基礎医学的な知見の価値「そのもの」を減じるものでは全くない。距離が遠くなろうと、ほとんど全ての臨床医学的プラクティスの源泉は基礎医学の研究にある。距離は遠いが、切れているわけではない。ただし、その距離感は理解しておく必要が有るし、ショートカットはどこにもない。
というわけで、21世紀の現在、基礎医学的実験の経験が診療そのものに益する可能性は極めて小さい。そう思い込んでいる輩は、むしろ診療の質が高くないのだと判断せざるを得ない。論理的な物の考え方とは、アナロジーの考え方である。ある事象を同等に扱うか、異質に扱うか。むしろ、哲学的な徹底的な思考を必要とする。そういうことは、医学部の大学院ではほとんど教えてもらえないのである。
基礎医学は(ほとんど)すべての臨床医学的知見の源泉である。しかし、その源泉はあまりに遠いところにあり、すぐに手に入れ、飲み干すことはできない。基礎医学のロジックもメソドロジーも臨床現場ではそのまま応用することはできない。20世紀にはできたことだが、21世紀には、それは許容されない。臨床現場には臨床現場のロジックが必要だ。それは、基礎医学のロジックの「そのままの」援用では通用しない。
というわけで、2013年の現在、臨床医として学位を持っているかとか、基礎医学実験の経験があるかないかという問題の意義は、20世紀のそれと比べると相対的にはかなり小さな問題になっている。繰り返すが、基礎医学の価値が損なわれているわけでは全くない。あくまで、「距離」の問題なのだ。距離の問題とは、正しい、正しくない、という二元論の扱いでは扱うことができない。程度の問題なのだから。
学位をとるか取らないか、という二元論的議論はすでに意味がない。「そこ」はポイントですらないのである。大事なのは、臨床へのアプリケーションの可能性をきちんと吟味することである。そこができれば、基礎医学の素養は報われる。そこができなければ、単なる足かせになるだけだ。「こうなるはずだったのに」という後悔の言葉しか出てこなくなるのだ。
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。