いまだに、二言目にはインパクト・ファクターという大学教授が多い。
いいですよ、もちろん。研究者を評価するためには。
しかし、臨床家をリクルートするときに、インパクト・ファクターを勘定に入れるのは、カウンタープロダクティブである。
インパクト・ファクターの高さは、その人物の研究へのコミットメントの高さの証である。IFが高ければ、高いほどかの人物は研究にコミットしている。逆に言えば、臨床へのコミットメントはその分目減りしている。だれにでも分かる、当たり前の事実だ。
そのことをコミにして、臨床部門の教授をリクルートするならよい。診療は部下にお任せし、実働部隊が別にあるなら、それでもよい。そういうチームもたくさん知っている。
しかし、かのリクルートする人物「そのもの」に診療部門のリーダーとして期待しているのなら、IFの高さは能力の「低さ」の証左なのである。当たり前の事実だ。
ノーベル賞をとった山中先生ですら、臨床的には秀でていなかった、というのが本人の弁だ(本当かどうかは知らない)。逆もまた然り、である。ある部門に秀でながら、他の部門においても優れている、というのは神業的な奇跡を必要とし、殆どの人はそのような奇跡の恩恵を受けていない。
誤解のないよう、繰り返すがIFそのものの価値は高い。研究者の評価としては一定の意味がある。研究者は大切であり、けっしてないがしろにしてはならない。僕自身、基礎研究者を目指しており、最大の恩師は解剖学者である。研究者への蔑視も妬みも微塵にもない。
問題は、能力のアプリケーションを間違えてはいけないということだ。いくら優れていても、フェラーリに空をとぶことを期待したり、ロレックスの時計に音楽を流すのを期待するのは、的外れだ、ということだ。優れた臨床医にNatureやScienceにガンガン論文を出すことを期待するのは、「そういうこと」なのである。
このようなシンプルな話が未だに理解できない大学教授は数多い。20世紀の世界観、昭和の世界観に未だに引きずられているからである。自分たちの価値観が他人にもアプライしないといけないという頑迷なる信念に引きずられているからである。自分と他者は違っていてもよいんだよ、という度量がないからである。多様性を認めるという成熟度がないからである。
成熟度の欠如は、幼稚さとイコールである。教授選において、その人物の「幼稚さの度合い」を考量するスペースはない。ゆえに、少なからぬ大学教授はこの属性において、当てはまっちゃうのである。そのことに自覚的であればまだよいのだが、多くはそういう事実にも無自覚なのである。
知性は、知識の総量ではない、と昨日の講演で話した。百科事典的知識の持ち主でも、Wikipediaにはかなわない。知識の総量なんてそんなものだ。問題は、自らが知るところと、自分の知らないことの線引がきちんとできているか、という点である。基礎医学は重要である。実験も大事である。しかし、マウスの実験を外挿しても診療はできない。臨床医学に直接アプライすることはできない。そこには異なる知の営みが存在している。その線引ができることが、知性と成熟の証なのである。これが決定的に欠如しているケースがあまりにも多くて、我々はとても苦労するのである。
これを読んだ人の多くは、納得するだろうし、また多くの人は「それでもIFだ」とすがり続けることであろう。人の信念とはかくも、「そういうもの」である。でも、人の価値観はゴロッとあっさりと変わることもある。あんなに「すがっていた」抗菌薬の皮内反応も、だれもやらなくなった。そういうものだ。ぼくのミッションは、神戸大学病院を良い病院にし、その結果兵庫県の病院や医療機関のレベルが上がり、その結果兵庫県の医療のレベルが上がり、患者が恩恵をうけることだ。そのアウトカムのために、繰り返しこういう話をしているのである。
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