http://www.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail_3218.html
昨日、クローズアップ現代で脱法ハーブが特集されていた。化学物質の側鎖をちょい変えて取り締まりを逃れるというやり方で、どんどん「脱法」するハーブが増えていく。規制をかけようとしても既存のやり方だと、実験や会議が煩瑣で何千とある(そしてこれからも増え続ける)化学物質を有効に取り締まることは不可能だ。
http://herbwiki.net/%E5%90%88%E6%B3%95%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%96%E8%A6%8F%E5%88%B6%E7%8A%B6%E6%B3%81
というわけで、側鎖に関係なく一定の構造式「そのもの」を規制する包括規制や、他国の規制状況をそのまま国内にリンクする国際的な規制のコンセンサスが必要になる。常識的に考えて、イギリス人とかアメリカ人に幻覚や見当識障害を起こす化学物質が日本人に何も起こさないと考えるのは極めて不自然だし、そのような作用を起こさない物質であれば「脱法ハーブとしてのレゾンデートル」を失うわけで市場には出ず、したがって社会問題にはなりにくい。
構造式を共有していても医薬品として(あるいはその他の理由として)役に立つという反論はあろう。であれば、そちらを「安全性の審査」にかければよい。大ざっぱに網を張って、例外をピックアップするやり方だ。そちらにおいて、文献審査、実験による検証、そして会議による(安全性、有効性の)確認を取れば、脱法ハーブの取り締まりと、取り締まり過ぎによる弊害のバランスがとれる。
同じ発想を逆転させてみよう。海外で使われている新薬も、「日本人にだけ効果がない」とか「意外な副作用が多い」可能性は否定できない。否定はできないが、そのような原理主義的安全確認主義はあまりリーズナブルではないし(理路は上に示したとおり)、ドラッグラグの大きな原因となる。とくに長年の実績がある抗菌薬などは海外の承認をもって日本でも承認する拡大型の公知申請が望ましい。そして、市販後調査で問題懸念を示すデータが見つかれば、そこで「例外」として文献審査、実験による検証、さらに会議を行えばよいのだ。
僕が知る限り、海外で承認された医薬品が日本人に特異的な副作用や薬効の欠如のために承認されなかったという事例はない(公開されていないので、本当の所は分からない。以前問い合わせたが、「製薬メーカーの守秘義務」とかで公開を拒否されたことがある)。もちろん、日本人特有の薬理作用はある(例、アバカビル、エファビレンツなど)。しかし、それらは承認の後、事後的に分かる薬理作用であり、注意を喚起するものではあるが、医薬品そのものを否定するものではない。どのみち、承認試験時点では気付かれなかった事象である。
そのような(あるとしても)例外的事項のために、社会に役に立つ医薬品をお役所仕事の俎上に載せて頭からブロックしてしまうのは、いかにも目的と手段を混同している。
よく考えてみれば、ぼくらは近年、ますます「例外事項に一般事項を合わせる」基準作りをして失敗している。例外的な不届き者の存在を懸念して、大学では過度な書類やプロシージャーを要求し、それがために多くの教員のパフォーマンスは下がっている。本来は、一般事項を基盤にして、例外は例外事項として扱うのが普通の考え方ではなかろうか。
ぶっちゃけ、例外的な不届き者は寛容にほっておいて、一般的な教員のパフォーマンスを最大化する努力をしたほうが、全体的には得する可能性が高い。でも、そういう全体を俯瞰した発想はほとんどない。不届き者は懲罰せねばいけないという平等主義的なルサンチマンが生じるからだ。でも、不祥事が起きるたびに締めつけが大きくなり、一方向的な規制主義だけが跋扈し、結局は全員が損をする。
一般論と例外を区別し、両者を別に扱えば、脱法ハーブの取り締まりも、医薬品の承認審査も、その他もろもろの面倒くさいプロシージャーも消失する。一律に同じプリンシプルをアプライしようとするから訳が分からなくなるのだ。何が最適解かは、全体像を俯瞰した上で決めたほうがよいと思うけれど、手続きが最優先されるとそれが見えなくなってしまうのだ。
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