ルソーは、「社会契約論」のなかで、国家に安定性を与えるために、百万長者も乞食も存在しないように、、つまりは極端な貧富の格差が生じないようにすべきだと主張した。彼は万人が全く差異のない平等をよしとはしなかったが、極端なのはアキマセンゼ、と言ったのだ。
大事なのは、「程度」の問題である。どんな物事にも「ほど」がある。ほどを知るとは大人になるということである。原理原則に引っ張られて、極端に走ってはいけないのである。
レバ刺しを食べれば、食中毒のリスクが生じる。このことに人は自覚的であるべきだ。しかし、レバ刺しなんて毎日食べるものではなく、年に数回食べる程度の健康リスクはほとんどない(免疫抑制者など例外は除く)。毎日レバ刺しを食べるような酔狂な人はまれだし、毎日食べていれば健康によくないというならばケンタッキー・フライドチキンだってチョコレート・パフェだって同じことである。食中毒に注意し、レバ刺しがそのリスクであることを認識するのは大切なことだ。注意を喚起するのは、ぼくみたいな感染症屋や行政の大事な責務だ。しかし、それを法律で禁じるというのは「極論」である。絶対たる安全、ゼロリスクを希求する極論だ。
知的財産権についても、ゆるく考えたい。それは完全なる善でも完全なる悪でもない。<反>知的独占もひとつの「極論」であり、知的独占がイノベーションを阻害したり、利益を減じることはない、というケーススタディに満ちている。しかし、知的独占がある人たちの利益を増すのはあきらかで、だからこそ独占したがるのだ。リナックスは素晴らしいが、アップルやマイクロソフトを駆逐したり、凌駕したりはできなかった。いや、リナックスみたいなコンセプトと、アップルみたいなコンセプトが同居している社会こそが豊かな社会なのだ、とぼくは思う。
図書館があっても出版業界は崩壊しなかった。貸本屋があってもマンガ業界は消滅しなかった。むしろ消滅したのは貸本屋のほうだ。ぼくはジャズ喫茶が好きであの空間を豊かだと思う。まだなくなってほしくはない。ジャズミュージシャンやレコード会社が「権利」を主張してジャズ喫茶の廃止を訴えるような、みっともない真似はしてほしくない。ディズニーがジャングル大帝もどきの映画を作った時、多くの日本人は鬼のクビでもとったように突っ込みを入れたけれど、手塚治虫もほとんど全ての日本の漫画家も、ハリウッド映画をパクっている。それをパクりというか、オマージュというか、パロディというか、剽窃というか、言い方はいろいろだけれども。
この問題は、「どれだけ利益が得られるか」とか「イノベーションが阻害されるか」といった「功利」で議論してはいけない問題だと思う。「世の中がこうなっている」という説明で議論してもいけないと思う。官僚とか法律家の視点「世の中を以下に精緻に説明できるか」で説明してはいけない。そうではなく、あるべき姿、倫理の問題として捉えるべきだ。
特許は、製薬メーカーに新薬開発のモチベーションを与える。しかし、極端に特許による利益が増えると、特許を取ることが手段ではなく目的となる。そこで、ちょっと剤形を変えただけのme too drugが増加する。古い薬、ジェネリックが安くなりすぎるのも問題だ。患者が搾取されるのもよくないが、メーカーが利益を全く出せないのも同時によくない。メトロニダゾールみたいな良い薬は、もすこし利益を出してあげればよいのだ。ぼくは冗談で、新薬に仕立て直して特許を取ればよいのにとか言う。ビタミンCとかグルコサミンを配合した、「フラジール・ゼット」とか「超スーパー・フラジール」とか名付けて高値で売ればよい。特許による利益が暴利的でない形で、パテントの切れた薬が商売にならないくらい暴落しないような形で、より緩やかな形で両者が併存していたほうがよい。むろん、途上国にはさらに安価で薬が提供できるほうがよい。
かつて日本が貧しい国だった時にも、知的財産を無視する形でやり繰りしていたのだから。そのときの我々を忘れるべきではない。ジャズ喫茶はレコードが買えなかった貧しい日本人が生み出した独自の文化だ。貸本屋もそうだ。レンタルCDやビデオもそうだ。マンガ喫茶もその派生物だ。ぼくが子供の時は、祭りに行くとガンダムもどきのへんなプラモデルやドラえもんもどきの変な人形がよく夜店で売っていた(間違えて買っちゃいました)。中国のパッチモンにもあまり目くじらを立てる気になれないのは、そのためだ。変なウルトラマンもどきやピカチューもどきの品物を見ても、「しようがねえなあ」と苦笑するくらいが、大人の態度であり、節度であるとぼくは思う。
世界から「ユルさ」が消滅しつつある。極端な糾弾社会。極端な突っ込み社会。極端な監視社会。ちょっとしたマイナーエラーもすぐにツイッターで広められ、ブログで広められ、それをマスメディアが引用する。最も、これも過渡期の産みの苦しみなのだと楽観したくもなる。極端に増加した情報量のために、情報の賞味期限は恐ろしく短くなっている。昨日起きた出来事も、今日気にする人はいない。携帯電話使ってカンニングした学生の話、まだ覚えている人、いますか?あのとき彼のエラーには不相応な過酷な厳罰がなされたけれど、あのときの大騒ぎ(新聞一面に載ったり)もあっという間だった。極論を乗り越えて、またゆるい社会が復活するかもね。だといいけど。
大事なのは、「程度」の問題である。どんな物事にも「ほど」がある。ほどを知るとは大人になるということである。原理原則に引っ張られて、極端に走ってはいけないのである。
レバ刺しを食べれば、食中毒のリスクが生じる。このことに人は自覚的であるべきだ。しかし、レバ刺しなんて毎日食べるものではなく、年に数回食べる程度の健康リスクはほとんどない(免疫抑制者など例外は除く)。毎日レバ刺しを食べるような酔狂な人はまれだし、毎日食べていれば健康によくないというならばケンタッキー・フライドチキンだってチョコレート・パフェだって同じことである。食中毒に注意し、レバ刺しがそのリスクであることを認識するのは大切なことだ。注意を喚起するのは、ぼくみたいな感染症屋や行政の大事な責務だ。しかし、それを法律で禁じるというのは「極論」である。絶対たる安全、ゼロリスクを希求する極論だ。
知的財産権についても、ゆるく考えたい。それは完全なる善でも完全なる悪でもない。<反>知的独占もひとつの「極論」であり、知的独占がイノベーションを阻害したり、利益を減じることはない、というケーススタディに満ちている。しかし、知的独占がある人たちの利益を増すのはあきらかで、だからこそ独占したがるのだ。リナックスは素晴らしいが、アップルやマイクロソフトを駆逐したり、凌駕したりはできなかった。いや、リナックスみたいなコンセプトと、アップルみたいなコンセプトが同居している社会こそが豊かな社会なのだ、とぼくは思う。
図書館があっても出版業界は崩壊しなかった。貸本屋があってもマンガ業界は消滅しなかった。むしろ消滅したのは貸本屋のほうだ。ぼくはジャズ喫茶が好きであの空間を豊かだと思う。まだなくなってほしくはない。ジャズミュージシャンやレコード会社が「権利」を主張してジャズ喫茶の廃止を訴えるような、みっともない真似はしてほしくない。ディズニーがジャングル大帝もどきの映画を作った時、多くの日本人は鬼のクビでもとったように突っ込みを入れたけれど、手塚治虫もほとんど全ての日本の漫画家も、ハリウッド映画をパクっている。それをパクりというか、オマージュというか、パロディというか、剽窃というか、言い方はいろいろだけれども。
この問題は、「どれだけ利益が得られるか」とか「イノベーションが阻害されるか」といった「功利」で議論してはいけない問題だと思う。「世の中がこうなっている」という説明で議論してもいけないと思う。官僚とか法律家の視点「世の中を以下に精緻に説明できるか」で説明してはいけない。そうではなく、あるべき姿、倫理の問題として捉えるべきだ。
特許は、製薬メーカーに新薬開発のモチベーションを与える。しかし、極端に特許による利益が増えると、特許を取ることが手段ではなく目的となる。そこで、ちょっと剤形を変えただけのme too drugが増加する。古い薬、ジェネリックが安くなりすぎるのも問題だ。患者が搾取されるのもよくないが、メーカーが利益を全く出せないのも同時によくない。メトロニダゾールみたいな良い薬は、もすこし利益を出してあげればよいのだ。ぼくは冗談で、新薬に仕立て直して特許を取ればよいのにとか言う。ビタミンCとかグルコサミンを配合した、「フラジール・ゼット」とか「超スーパー・フラジール」とか名付けて高値で売ればよい。特許による利益が暴利的でない形で、パテントの切れた薬が商売にならないくらい暴落しないような形で、より緩やかな形で両者が併存していたほうがよい。むろん、途上国にはさらに安価で薬が提供できるほうがよい。
かつて日本が貧しい国だった時にも、知的財産を無視する形でやり繰りしていたのだから。そのときの我々を忘れるべきではない。ジャズ喫茶はレコードが買えなかった貧しい日本人が生み出した独自の文化だ。貸本屋もそうだ。レンタルCDやビデオもそうだ。マンガ喫茶もその派生物だ。ぼくが子供の時は、祭りに行くとガンダムもどきのへんなプラモデルやドラえもんもどきの変な人形がよく夜店で売っていた(間違えて買っちゃいました)。中国のパッチモンにもあまり目くじらを立てる気になれないのは、そのためだ。変なウルトラマンもどきやピカチューもどきの品物を見ても、「しようがねえなあ」と苦笑するくらいが、大人の態度であり、節度であるとぼくは思う。
世界から「ユルさ」が消滅しつつある。極端な糾弾社会。極端な突っ込み社会。極端な監視社会。ちょっとしたマイナーエラーもすぐにツイッターで広められ、ブログで広められ、それをマスメディアが引用する。最も、これも過渡期の産みの苦しみなのだと楽観したくもなる。極端に増加した情報量のために、情報の賞味期限は恐ろしく短くなっている。昨日起きた出来事も、今日気にする人はいない。携帯電話使ってカンニングした学生の話、まだ覚えている人、いますか?あのとき彼のエラーには不相応な過酷な厳罰がなされたけれど、あのときの大騒ぎ(新聞一面に載ったり)もあっという間だった。極論を乗り越えて、またゆるい社会が復活するかもね。だといいけど。
岡山県で病院に勤務している者です。
先生の仰るとおりで、最近の世の中の、悪い意味での厳正さ=寛容さを欠く癖に責任は他所へ転嫁したがる様に思える風潮に、何となく違和感というか薄寒いモノを感じます。
投稿情報: Sulla | 2012/06/25 15:18