近藤誠氏の「抗がん剤は効かない」論は、雑誌掲載時から関心があったのですが、なかなか読めないままでいました。今回、文藝春秋社の単行本を読みました。
本書に対していわゆる「いってないこと」批判をするつもりはありません。「いってないこと」批判とは、情報量で優位に立つ(と信じている)サイドが「お前はこの点に言及していない」「お前はこの論文を無視している」と「いっていないこと」を取り上げて批判するというやり方です。このやり方のある程度の有効性は分かるのですが、あまり実りある議論になりませんし、がんの非専門家であるぼくがとるべき態度でもないですから(がん関係の論文は、圧倒的に近藤氏のほうが沢山読み込んでいますから)、本書の内容「だけ」で議論したいと思います。
医学的な議論は「各論的に」行わなければなりません。だから、「抗がん剤が効かない」という命題も、各論的により明確な命題にしなければなりません。つまり、
どのがんの、どのステージにおいて
どの抗がん剤が
どのような目的に照らし合わせて
その目的を達成しているか、否か
という命題に置き換える必要があります。そうしないと「あのがん」と「このがん」、「あの効く」と「この効く」のすれ違いがおき、不毛な対立が生じるからです。こういうときは必ず各論的に議論することが大事です。
もうひとつ、こういう議論をするときは、自らの立場を一回離れることも大事です。近藤氏はもちろん、その挑発的なタイトルから察するように「アンチ抗がん剤」派の放射線医です。そして、多くの腫瘍内科医(オンコロジスト)はプロ抗がん剤派かもしれません。もちろん、両者ともに原理主義的なアンチ、プロではなく、「ある程度」のグレディエーションはあると思いますが。そういう立場を離れて、より高位の命題「患者の役に立つか、利益になるか」という観点から議論がなされなければなりません。そもそも、抗がん剤を用いるかどうかは、手段の問題であって目的ではないのですから(手段と目的のひっくり返しの問題)。
ぼくら感染症屋には大きく分けると3種類います。一種類めは特定の製薬メーカーと協力して、ある特定の抗菌薬(やその他の医薬品)をプロモートする「立場性」を持つもの。感染対策のために抗菌薬乱用を嫌い、抗菌薬使用に抑制をかけたいという逆の「立場性」を持つもの。そして、両者の中間に立ち、必要な患者に必要な抗菌薬を提供し、不要な場合は使わないという「より高度な目的に立ち返って」抗菌薬はあくまで手段に過ぎない、という立場をとるものです。もちろんぼくはラストの立場にいたいと常に希求して診療していますが、残念ながら製薬メーカーの太鼓持ちみたいな感染症屋がいるのも事実です。
ここでは、(抗菌薬がそうであるように)ある特定の薬を「よい、わるい」の立場性で考えず、患者の利益になるか、というより高次の命題で考えてみたいと思います。
では、前置き長くなりましたが、始めます。
まず、近藤氏は12ページで、「抗がん剤は効かない」の対象となるがんを明示しようとします。それは固形がんであり、急性白血病やリンパ腫のような「血液がん」の多くはその例外とされ、コレラに対しては抗がん剤の効果を認めています。後に、精巣腫瘍や子宮絨毛がんなど固形がんの例外的存在についても言及されます。
また、抗がん剤については、従来のいわゆる抗がん剤と、近年の分子標的薬両者を含むともしています。
次に、一例として非小細胞型の進行期肺がんの化学療法治療成績を示し(NEJM 2002;346:92)、すべての群で生命予後は不良であったことと、生存曲線に大きな差がなかったことを示しています。
さらに、胃がん手術後の「クレスチン」の治療効果に人為的な操作が加えられており、その生存曲線に「上に凸」な部分があったので、人為的な操作が疑われた事例を挙げています。そしてその操作を除外して計算し直すと臨床効果は消失したというのです(Lancet 1994;343:1122など)。この事例から、近藤氏は「上方に凸になった場合には、人為的操作の介入が推認できるのです」(18ページ)としています。この論理については後述します。推認とは、「すでに分かっていることをもとに推測し、認定すること」です(大辞林第二版より)。
次に、胃がん術後の補助療法(TS1)についてです(NEJM 2007;357:1810)。ここで突然近藤氏は、製薬メーカーとの利益相反を根拠にこの論文は「額面通りに受け取れない」とします(24ページ)。そして、前述の「上に凸」であることを根拠に人為的操作があると指摘します。
前者については医学のどの領域にも存在し、そして決定的に払拭するのが困難な問題です。が、逆に「利益相反があること」はデータが間違っていることの証明にはなりません。単に「あやしい」と思わせるのみで、反証にはなっていないのです。
さらに近藤氏は「そもそもTS1は認可されるべきでなかった」と主張し、その根拠に1998年の日本癌治療学会総会における進行胃がんの治療成績に言及します。しかし、今対象となっているのは「術後の胃がん」であり、進行胃がんの議論はアプライできません。常に各論的に「あれ」と「これ」をごちゃごちゃにしないことが大切です。
次に、転移性乳がんに対する分子標的薬「ハーセプチン」の研究です(NEJM 2001;344]783)。ここでも、近藤氏は「生存曲線の形は奇妙」という根拠でこれを否定します。その生存曲線は本書に紹介されていませんが、ウェブ上で見ることができます。
http://www.nejm.org/doi/full/10.1056/NEJM200103153441101
次いで近藤氏は国内の臨床試験で転移性乳がん患者18人の予後が悪かった(プラス情報操作の疑い)を批判しますが、転移性乳がんの生命予後はハーセプチンを使っても良いとは言えないのは前述の比較試験でも確認済みで、かつ近藤氏が常々主張する「くじ引き試験でなければ結論づけられない」にも抵触しています(ただし、ぼく個人は非くじ引き試験は否定しません)。
次に、転移性大腸がんに対するアバスチンです(NEJM 2004;350:2335)。これも、基本的には「上に凸」理論と利益相反を根拠にその結果を否定しています。また、後にアバスチンの効果を否定する論文が出たというのも反証の根拠になっています(Oncology 2010;78:376)。ある臨床試験が後に別の試験でひっくり返されることはよくあることなので、この指摘は妥当だと思います。ただし、その近藤氏が反証に用いた2010年の試験、グラフを見ると非アバスチン群はあきらかに「上に凸」です。ある論拠で論文の妥当性を批判するなら、当然この論文にも「アバスチンを加えていない群に人為的な操作が加えられている」と批判すべきでしょう。
さて、近藤氏が抗がん剤の臨床試験を否定する最大の根拠は「生存曲線上に凸」理論です。その前提には、生存曲線は指数関数的に下に凸にならねばならない、というものがあり、そのさらなる前提には「一定期間内の患者の死亡率は常に等しい」という仮説があります。ある一定期間(例えば1ヶ月)に与えられた集団の死亡率が常に等しいと、生存曲線は確かに指数関数的になります。蛇足かもしれませんが、生存曲線は常に下に向かっていきますので、その曲線が本当に上に飛び出ることはあり得ません。
患者の追跡が打ち切りになり、生死が不明な場合、追跡を途中で中断した場合は見かけ上、指数関数的カーブが上にせり上がってきます。この点は近藤氏の指摘する通りです。詳しくはこの説明が判りやすいです。
http://www.igaku-shoin.co.jp/paperDetail.do?id=PA02974_05
しかし、この仮説には2点の問題があります。一つ目は、指数関数的カーブになる前提、「一定期間内の人の死亡率は常に等しい」です。本当にそうなのかは検証してみなければ分かりません。次に、途中脱落、あるいは追跡打ち切りになったケースが臨床試験上あったとしても、それを方法のところで明示していれば、決してこれは不正ではありません。近藤氏も「許される」43ページ、と書いています。途中脱落、打ち切りは好ましくはありませんが、現実問題の制約上、やむを得ません。近藤氏の指摘する「いんちき」「隠ぺい」がダメなことは事実ですが、やむを得ない現実的な制約があることと、それが「いんちき「隠ぺい」であるかは別問題です。
現に、上に近藤氏があげた「上に凸」だから問題、とされた生存曲線は、プラセボ群もやはりカーブは上に凸になっています。もし、研究者が悪意の人で一方の群だけに情報操作をおこなったのであれば、プラセボ群も生存曲線が上に凸になっている説明ができません。むしろ、脱落、打ち切りというやむを得ない現実的な制約があったためと解釈するほうが自然です。
近藤氏は上に凸論の根拠として、「帰納法に関わることで、死亡リスクが一定でない場合を含め、グラフが指数関数曲線になることが、多数の論文データから帰納的に証明されている」(120ページ)と書きます。しかし、これは帰納法に対する大きな勘違いです。帰納法は「何かを証明しない」からです。このことは、カール・ポパーの反証論が有名です。目の前に99の黒いカラスが見えても、次のカラスが白くないことを証明はできません(示唆することはできても)。だいいち、すでにたくさんのスタディーで上に凸になることは近藤氏自身がお示しになっている。「帰納法的に証明された」ものは正しくて、その次に観察された事象は「いんちきだ」と断定するのは、データではなく近藤氏の「主観」です。どちらが正しく、どちらが間違っていて(あるいはどちらも正しくて)、というのはデータそのものは教えてはくれません。
帰納法は「他人に起きることは私にも起きる」という信念に基づく仮説ですが、真理をそれ自体は証明しないのです。
近藤氏が「抗がん剤が効かない」としている最大の根拠は利益相反と上に凸理論です。すでに述べたように、利益相反は問題ですが、「抗がん剤が効かない」証明にはなりません。上に凸理論もすでに示した理路で同様です。この時点で、近藤氏が「抗がん剤が効かない」という根拠は失われてしまいました。
さて、次に立花隆氏との対談です(2章)。ここはアネクドータルなエピソードが続くので、とくに気になったところだけを申し上げます。
まず、近藤氏が述べる、全死亡率(OS)と無憎悪生存率(PFS)は分けるべきだという議論は極めて重要です。人間は、癌で死ななければよいというものではありませんから、他の理由、例えば近藤氏の指摘する抗がん剤の毒性による死亡も当然加味して吟味する必要があります。また、別のところで近藤氏が指摘するように、日本の医療はしばしばサロゲートマーカー、血圧が下がった、血糖が下がった、CRPが下がった、腫瘍が小さくなった(3章)、、といったマーカーに着目し、患者全体の利益を考えてこなかった側面はありました。だから、アウトカムを明確にして議論しましょう、という近藤氏の提言はしごくまっとうなものだと思います。そういう観点からは、「効く」とされている抗がん剤が実は「効いていない」(患者の真のアウトカムに寄与していない)事例はあると思います。
ただ、その後梨本勝氏の事例で、近藤氏も立花氏も「抗がん剤で命を縮めたんじゃないか」という結論に飛びついています。事前にリード・タイム・バイアスの問題が議論されているにもかかわらず、発見が遅過ぎた場合の可能性が顧慮されていないのでここは片手落ちです(それに、抗がん剤以外でも、肺炎などの感染症、血栓、出血などがん患者が急変する理由はたくさんあります。ぼくはがんの専門医ではないですが、感染症屋としてがん患者は沢山診てますから、現場に入ればそんなことはすぐに分かります)。近藤氏にしても立花氏にしても、ある仮説を立てるときは別な仮説との比較検証が必要である、という科学的議論の基本を踏まえずに割と独断で結論に飛びついています。
一方、近藤氏の基礎学問の進歩と「臨床につなげる方法論」へのブリッジングの未熟さは、すでにいろいろな領域で指摘されており、ぼくもその通りだと思いました〔72ページ)。
抗がん剤とは関係ないですが、近藤氏は「副作用がある」という理由で併用するステロイド〔89ページ)、胃薬(131ページ)を批判します。H2ブロッカー、PPIにいたっては、「こんな危険な薬を、副作用止めと称して、全員に処方してはいけない」(132ページ)と批判します。ここは、半分同意、半分不同意です。まず、副作用止めと称してどんどん薬を増やしたり、無批判にPPIなどを用いるのは問題です。ステロイド、PPIの副作用はわりとしばしば見ます。他方、添付文書上の超まれな副作用も列挙して「こんなに怖い薬」と読者をあおるのは医者としてはフェアではないと思います。ほとんどの薬は添付文書上に沢山の副作用情報が列記されていて、これらの薬が例外ではないからです。同じような論法で「放射線治療にはこんな副作用が」とまれなものまで列記して放射線治療を批判したら、近藤氏だっていい気持ちはしないでしょう。後のページで各抗がん剤についても添付文書上の副作用を列記して印象操作まがいな言説がありますが、これも妥当ではありません。
少しとばして143ページ。近藤氏は転移性乳がんの多剤併用化学療法と、100年前のヒストリカル・コントロールを比較して「大差なかった」としています。しかし、これこそ近藤氏の主張する「くじ引き試験」ではなく、リード・タイム・バイアスなど種々のバイアスの可能性は払拭できていません。ぼく個人は必ずしも医学的情報を「くじ引き試験」で扱わなくてもよいこともある、という考えなので、ヒストリカル・コントロールとの比較を無下には否定しませんが、近藤氏のプリンシプルからは外れている方法なのではないかと思います。
最後に、些細なことですが、アメリカの腫瘍内科医がマホガニー製の椅子に座ってリッチな生活をしている、みたいな印象操作はほとんど本題とは関係ありません。もともと、アメリカの医者はどこの専門家でも日本の医者より高給取りですし。
抗がん剤が効かない理由(148ページ)については、「原理的な障害」のために抗がん剤が効かないとしていますが、それではなぜ白血病やリンパ腫には有効なのか、むしろジレンマを提供しています。ある仮説を提唱するのはもちろんOKですが、ひとつの現象(固形がん)にそれをアプライして他方に無視するというやり方はフェアとは言えません。ここでも各論的に議論しなければならないのです。
毒薬、劇薬についても、大量投与をすれば毒性があるという概念なので、本書のがん治療の文脈でこれを持ち出すのはフェアではありません(そもそも、大量投与すれば毒性があるといえば、なんといっても放射線ではないでしょうか)。
「劇薬も使用量をどんどん増やしていけば、100%が死亡することになる。少ない使用量でも死者が出るのは、いわば当然であるわけです(160ページ)は、日本語的に論理的に、シンプルに間違った文章です。
最後に、利益相反について。近藤氏は抗がん剤の論文は腫瘍内科医が査読するのだから、いわば共犯関係にあり、だから論文は信用できないと言います。この指摘には、妥当なところがあると思います。専門家の言説は専門家にしか評価できない。しかし、そのインサイダー的なやり取りはアウトサイダーには見えない。そこで、アウトサイダーは内部で何かよからぬことをやっているのではないか、という「陰謀論」に至ります。かといって、アウトサイダーがインサイダーに反論を仕掛けると、専門用語とデータの絨毯爆撃にあって反論されます。アウトサイダーが(率直に言って)トンチンカンなことを言っていることも多く、これはマスメディアが科学論文を取り上げるときにしばしば観察します。
これは専門性の高い科学領域の宿痾のようなものでして、インサイダーの学的、倫理的妥当性をどう担保するのかの重要な問題だと思います。
しかし、近藤氏がそのロジックを「腫瘍内科医」だけに当てているのは納得できません。それをいうなら、放射線治療の論文もすべて「あれはインサイダーの放射線医が評価しているのだから信用できない」とか「放射線治療関係のメーカーとの利益相反」みたな悪口で一刀両断されてしまいます。ここでも、あるロジックを特定の領域のみにアプライしているので、そこに恣意性、アンフェアさが生じてしまうのです。
抗がん剤には、まだまだ改善の余地があるとはぼくも思います。もっと副作用が少なく、もっと治療効果が高い抗がん剤が開発されるのが望ましい。そういう観点からは、近藤氏が現行の抗がん剤の効果を「微妙」と呼ぶのも理解できます。進行がんの場合、臨床試験も有意差があろうとなかろうと(近藤氏の呼ぶ情報操作があろうとなかろうと)その生存曲線はだらっと下に向かっていることは間違いありません。患者サイドが通常考える薬が「効く」という意味を想像すると、確かに「効く」といってもなあ、という気持ちも分かります(臨床医が認識するところの「効く」と患者サイドのそれにかい離がある)。
だからこそ、そのギャップを埋めるために医療者はよりよいコミュニケーションのあり方を模索していかなければならないのに、むしろ近藤氏は現行医療に「陰謀」の臭いをちりばめて、よりそのギャップを広げようと模索しているように見えます。
最初の方に書かれている「グレディエーション」はgradation グラデーションだろうと推察します.gradiationは平坦化みたいな意味か、と.
投稿情報: Torunagata | 2013/05/01 18:34