当然のことだが、現在、学問やビジネスの世界における共通言語は英語である。もちろん、哲学の領域などではフランス語やドイツ語が必要なこともあるだろうし、文学の世界ではロシア語が強い。音楽の世界ではイタリア語、ビジネスの世界では中国語が重要になっている。こうした例外はあるので、リンガ・フランカを見つけるのは大変だ。しかし、全体的には英語はかなり、現在のリンガ・フランカに近い。
一方、保健や看護の領域では現在質的研究が流行しているが、これを英語で行うのは簡単ではない。被験者の言葉、息遣いが大事になるからであり、やはり日本語で研究するほうがうまくいきやすい。ぼくは英語で質的研究を論文にしたことがあるが、やはり日本語のほうが良かったと今では思っている。
http://www.med.kobe-u.ac.jp/journal/contents/56/E195.pdf
さて、韓国では学問をやるときは全て英語で行うのが普通になっているという。母国語で学問をするなんて古いというわけだ。グローバル化を受けて世界に進出する韓国。ビジネスの世界でも学問の世界でも日本をリードする日が来るかもしれない(電気製品など、部門によってはもう来ている)。
が、しかし。それで「日本も学問やビジネスの言葉を英語にしよう」というのは短見というものである。
実は、ぼくはユニクロのように公用語を英語にしようという会社の存在を必ずしも否定しない。そういう会社もあってもよいと思っている。
しかし、当たり前のことであるがビジネスの世界において英語をしゃべるかどうかはあくまで手段の問題であり、それは目的ではない。ユニクロにとって最大の目的はよりよい製品を作ってこれを世界中で上手に売っていくことにある。その目的に照らし合わせて英語が有益であればそれでよい。英語を介さない社員を失うマイナス点を凌駕できれば、それでよい。どっちにしても得するにせよ損するにせよ会社内部の問題であり、ぼくの知ったことではない。ぼくは以前どこかで岩波書店の縁故採用は構わないと言った。あれも同じことだ。他人がとやかく言うことではない。
日本全体としても、日本人の人口はこれからどんどん減っていく。これは、日本語を解してくれる人口が減少していくことを意味している。最近の外国人は日本語がとても上手だが、かといって世界中何億もの人が日本語を解するなんて事態は起きないだろう。今、日本語というアセットを利用して生計を立てている出版社やテレビ局、新聞社、物書き、役者などは今のうちにそのことを真剣に考えておかねばならない。まあ、落語家などは寄席に入れる人数も限られているから、大した問題ではないかもしれないが。
とはいえ、日本の企業や学校がみんな英語化に向かうような愚かな行為はしないほうがよい。こと、英語力に限って言うならばどんなにがんばっても英米人には勝てないからだ。これまでの経緯を考えると、韓国や中国、ヨーロッパの諸国に勝つのも難しかろう。同じ方法論を真似したって日本が世界を席巻する可能性はほとんど皆無だ。ぼくはそう思う。うまくいっている人間の真似をした人がうまくいった試しはない。コピーはオリジナルを凌駕しない。
言葉は手段である。目的ではない。日本語であっても、それで卓越した思想やことばを展開すればそれでよい。稚拙な英語でつまらないことを口にするより、日本語で卓越した言葉を残したほうがベターであるならば。村上春樹や大江健三郎は日本語で小説を書いたが、世界中で読まれている。丸山真男や内田樹もそうなる(といいと思っている)。イチローは通訳を使うけどプレーは大リーグ第一級である。宮崎アニメ然り、黒澤や小津映画然りである。小津安二郎が英語で映画を作って、あのような傑作ができるわけがない。
医学の研究だって、卓越した構想を日本語でできる研究者と、英語ペラペラだけどアタマは空っぽであればぼくは必ず前者を採る。どうせ医学論文なんて大した英語力は要らない。専門用語と中学レベルの英文法があれば充分だ。
繰り返す。英語は手段である。目的ではない。ツールたる英語は大事である。どんどん活用すればよい。英語に堪能な日本人も増えるべきである。英語の文献を読みこなすほうが、読みこなせないよりもずっとよい。しかし、平坦に皆に同じような能力を要求すれば、そこに同質の人間が集まるだけである。いろいろな職能を持った人間が集まっていたほうが絶対に面白い。梁山泊的な組織をぼくは好む。韓国が(あるいはどの他者であってもよいが)やっているから、日本もやろうというのは一番ダメな発想である。韓国がやっていないという理由で、ある選択肢を日本は採るべきでなのである、当然。
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