週末に、池田清彦先生と名郷直樹先生との対談があるので、「構造主義科学論の冒険」を読み直している。数年ぶりの再読だ。たしか、当時2回くらい読んで「強烈に面白いけどなんだか分らないことが多いなあ」と思っていたのだが、今回再読して、「なんだか分らない」ことが減っているのにびっくりした。ここ数年で、池田先生の言葉が自分の懐に落ち込んでいったことがよく理解できた。
さて、大阪市長のあれこれで、日の丸・君が代がもめている。池田先生の構造主義科学論に「君が代」というシニフィアンの恣意性について書かれていたので、思い出してここに記す。
僕の意見は以下の通り。行政(市や文科省など)が現場にこういうのを強いるのはあまりよくないと思う。だから、僕は橋下市長のやり方には同意しない。が、それはそれとして、起立を拒否したり君が代斉唱を頑なに拒む教員はよくないと思う。要するに、「どっちもどっち」と思う。
構造主義的には「日の丸」「君が代」が意味することは各人各様で解釈が異なる。当たり前だ。それが単なる「旗」や「歌」の人もいるだろうし、ルサンチマンの対象となる人もいるだろう。心の支えになっているひとももちろんいるだろう。ここで大事なのは「私が認識する日の丸・君が代」というシニフィアンが他の人のもつシニフィアンと同一である根拠がないことである。他人が自分と同じように考え、認識するのが当たり前だとか、そうあるべきだというのが手前勝手でプレマチュアな考え方なのだ。
大事なのは、自分の信条や思想だけではない。「世の中には、私とは異なる信条、思想の人がいて、その人の意志も尊重しながら生きていくのが、大人の生き方なのだ」と理解しながら、かつ主体的に生きていくことなのだ。もちろん、それは自分の信条や思想を捨てたり否定するのとはまるで違う。
例えば、先日来日したブータン国王夫妻との晩餐会に当時の防衛大臣が欠席したケースを考えよう。彼の信条、思想としては出席は必要ないというものだった。しかし、世論は厳しく彼の態度を非難した。そんな不遜な話はあるか、失礼である。これが大概の世論であったはずだ。
自分の意見や信条を差し置いても、尊重しなければいけない「他者」がいるのである。他者に対する敬意を示さない態度は不遜であり、けしからん。この点において多くの人は賛同するはずである。もちろん、ブータン国王夫妻が来日しての晩餐会だ。大臣はこれを重く見て出席するのがすじである。礼儀である。その信条・思想とはまったく無関係にそうである。
で、もしある儀式でブータン国旗が掲揚され、ブータン国歌が演奏された時、みなが起立し、国旗を見上げるとき(国歌は歌えなくても仕方ないと思うけど)、一人だけ着席したままで憮然と腕を組み、脚を組んで苦み走った顔をしている日本の大臣(あるいはその他の日本人)がいたとしよう。そういう人物の存在を、みなさん、看過しますか?おそらくは「失礼なヤツだ」と非難される可能性が高い。僕ならそう考える。
これは、あくまでも「他者に対する敬意」の問題である。自分の信条、思想とはまったく関係ない。そんなわけで、日の丸君が代を強要しようとする輩も、それを頑固に拒否する輩も、「他者への敬意」を欠くという点で同じ根拠で間違っているというのがぼくの意見だ。
別の例を挙げよう。娘が結婚するという父親がいる。本当は反対だ。しかし、あれやこれやの紆余曲折を経て結局結婚式・披露宴が執り行われる。このとき「おれは最初っから反対なんだ」と式への出席を拒んだり「おれはクリスチャンじゃない」と式での起立や賛美歌の斉唱をあからさまに拒んだり、披露宴で拍手や起立を拒否し、酔って暴れ出したりする父親を見たらみなさん、どう思うだろう。自らの信条・思想に忠実な見上げた男だと考えるだろうか。
もし、こういう男が式場にいたら、たいていの人は「見苦しい」「大人げない」「娘が可愛そう」と考えるはずだ。
自分の信条・思想を棚に上げても、娘の幸せのためには無理にでも笑顔を作るのが本当の大人であり、本当の男の態度である。マッチョな意見で申し訳ないが、ぼくはそう思う(「カリ城」ラストのルパンを思い出されたい)。
生徒・学生にとって卒業式は華の儀式だ。そのときに、生徒・学生の最良にして最高のアドボケイトであるはずの教師が、みなが起立して歌っているさなかに機嫌悪そうに着席したまま、憮然としている。そんなことが美徳として許容できようか。彼(女)は、教え子の晴れの舞台よりも自分の信念を優先させているのである。僕は、教育者として、こんなみっともない態度は絶対に取りたくない。その信条・思想とはまったく無関係に、そう思う。
だいたい、今の世代の教師は天皇制や君が代、日の丸に直接的な被害を受けていない世代である。なるほど、戦時・戦後に散々苦労した世代なら、天皇制とその周辺にルサンチマンを抱いてもまあ理解できることはあろう。しかし、今の教師の世代で天皇に罵倒されたり、命の危険にさらされたりした人はまず皆無だろう。直接的な被害はほとんどない。その反感はあくまでも観念的な反感だ。観念による反感を理性で抑えることができないという未熟さを、教え子に示してよいわけがない。(まあ、直接的な被害に対するルサンチマンをどう扱うかについてもいろいろ考える所はあるが、ここでは省略する)。
もちろん、皇族はよい暮らしをしているのに(ほんとかどうかは知らないけど)、俺は苦労している、的な八つ当たり、嫉妬の末の反感はあるかもしれない。このような過度な平等思想は他人と自分が同じでなければならない、という観念が「自分がどうあるか」という観念よりはるかに勝っている、他者との関係性でなければ自分を規定できない人である。
それは、主体性の欠如といってもよい。
昨年、アメリカに行った時、ビジネス街にたくさんの人がテントを張って抗議活動をしていたが、彼らは「金中心の社会がだめだ」と主張しているわけではない。「あいつらが金もうけしているのに、おれたちには金がない」と怒っているのだ。それは別な表現系の「金中心の考え方」にほかならない。本当に金中心の社会から脱したいのなら、ウォール街で儲けている人たちなど見向きもせず、「あれあれ、ずいぶんお金を稼いでますね。私は私で別の生き方で行きますんで、ご自由に」となるはずなのだ。
他者の視線から自由になった、主体的な生き方をすれば、このような歪んだルサンチマンは消えうせる。、、、そんな本を近日出します。主体性をテーマにしていますので、よかったらどうぞ。
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