「アメリカはなぜ日本を助けるのか」という本を読んだ。タイトルそのものの疑問がぼくにもあったからだ。ロンドンやワシントンの支局長まで務めた超エリート、かつベテランのジャーナリストが著者である。日本に跋扈する陰謀論への懐疑など興味深い論考も多かったが、全体的にはかなりがっかりさせられた。アメリカは素晴らしい国で、同盟国の日本を助けているのだ。ソビエト連邦をや北ベトナムはダメな国、、、といういつの時代の論考か、といぶかしくなるほどの二元論(いや、一元論か)で、これだけ経験のあるジャーナリストですら(いや、だからこそか)こんな平坦な論考しかできないものなのか、と唖然とした。書名の謎はついに解けなかった(トートロジーだし)。このことは、「経験」というものがもつ陥穽を表している。豊富な経験は時に人を成熟させず、むしろその逆のことが起きるのだ。むしろ、著者が指摘するように「人はなぜアメリカを憎悪し、ミソアメリカ(misoamerica?)的な現象が起きるのか?」という新たな謎が起きるくらいだ。
なぜこのような現象が起きるのかというと、自らの立場性への無自覚が最大の原因であるとぼくは思う。アメリカを熟知するとは、アメリカに入れ揚げるということである。そのバイアスに相当自覚的でなければ、理を尽くした論考にはならないのである。しかし、ある意味この本は極めてアメリカ的なのもまた事実である。アメリカにはいろいろな意見があり、その見解はバラエティーに富んでいるが、一点だけほとんど全ての論者に共通する点がある。それは「俺の意見は正しく、そうでない意見は間違っている」という確固たる信念である。「俺の言っていることは間違っているかもしれないから、あてにするな」という言い方は(すくなくとも僕が知っているアメリカ人の99%は)少なくとも議論の場では、絶対にしない。アメリカに留学する人たちも、多くは「自分のこと」しか語ろうとしない傾向にある。その態度を僕はあまり好きになれない。
この本で、森嶋通夫の「新軍備論」がけちょんけちょんにけなされていて、思い出した僕は書架にほったらかしてあった森嶋の「終わりよければすべてよし」を手に取り、これを読んだ。実に面白かった。これを読んだのは「論座」での連載であり、今から10年以上前のことだ。再読しようと去年注文したら、2001年に出版された単行本が「第一版」であった。増刷されなかった可能性が高い(たぶん)。3部作の最終作である本書の前の2冊は文庫化しているけど、この本は文庫化されていないようで、どうも売れなかったみたいだ。とても面白いのにね。
その本からの抜粋である。長いけれども、文章がとても美しいのではしょらずに抜粋する。
「私は青山秀夫先生に理論経済学の指導を受けていた若い時代以来、マクス・ウェーバーに興味を持っていた。先生の影響である。
先生のウェーバーは熱烈なプロテスタントとしてのウェーバーであり、いたる所に「山頂の垂訓」が書かれていた。私のウェーバーは「価値自由」の社会科学者としてのウェーバーであり、プロテスタンティズムという価値をも一個の社会現象と見る不偏不党の論理追及者としての彼であった。
私がウェーバーを読まねばならぬと思ったのは高等学校時代に遡る。同級生にウェーバーの「社会科学方法論」(岩波文庫)を翻訳した立野保男の弟か従弟の立野茂雄がいて、ウェーバーがわれわれの間で話題になることが多かった。しかし本格的に彼の方法論を教えられたのは高田保馬からである。第二巻でも書いたように、私たちは石川興二の「経済哲学」を聴講していたが、極右の彼が激情のあまり陸軍をも罵倒したので、然るべき所(特高か憲兵隊)から文句が出て彼の講義は中止になった。
その代わりに高田が新しく経済哲学の講義をやり直したのだが、新講義の主なトピックはウェーバーの「社会科学方法論」であった。社会科学の中にはその人の価値観や世界観に著しく依存する者ーーマルクス主義経済学や当時の皇国経済学や全体主義的経済学その他ーーがある。そういうものは客観的な、純粋に科学的な経済学とはいえない。科学から価値観を追放せよ、価値からは自由であれというウェーバーの立場を高田は強調した。だから私たちはウェーバーは反共産主義であると共に反大東亜共栄圏的な人として理解し、私たちは彼は死後も地下で共産主義や右翼と戦う大英雄だと考えていた。」
もちろん、価値や立場から自由になるのは極端に困難で、ウェーバーも森嶋ももちろん、立場や価値観を持つ人たちである。でも、そのことに自覚的であることはとても大事である。なるたけ、そういう立場から自由であろうと挑戦する態度こそが美しいのである。そこから逃れられない自分に歯がみすることが大事なのだ。
「アメリカは、、」のように立場性モロダシの論考に僕が苛立つのは、そういう子供っぽい態度が嫌いだからである。これは正邪の問題ではなく、好悪の問題である。自分の立場からしかものを言わない態度がとても見苦しくて「けっ」となってしまうのだ。残念ながら大学や医療界にはそういう人が圧倒的に多くて、二言目には「私の立場」「私の専門性」「私の医局」の話しかしないのだけれど。
価値中立的であるとは孤高に堪えることである。多数派に安住せず、孤立し、マイノリティーであることを自らすすんで選択することである。そして、自分の正しさに常に懐疑的なことである。だから僕は(架空の人物だけど)フィリップ・マーロウが好きで、立川談志が好きで、森嶋が好きなのである。彼らは自分のディシプリンを主軸に生きるのである。それは伝統の否定ではなく、単なる新しい者への変革でもない。談志は志ん生や文楽をこよなく愛しつつ、古典を大切にしつつ、イリュージョンという新しい落語のスタイルを作り、立場や党派性や団体を守ろうとした落語協会を嫌悪した。こういう矛盾に堪えることが党派性をもたないことなのだ。森嶋も立場や党派性ばりばりの日本の学術界と決別し、斜陽になりつつあったイギリス(とイタリア)に固執し、主流になりつつあったアメリカにはついに向かわなかった。こういう生き方にはとても共感を覚えてしまうのは、ぼくのありたいというあり方と見事にシンクロしているからだと思う。悲しいことだ。そのことは、ぼくはしんどくしか生きていけないことを意味しているのだから。
感染症内科の研修医にも、党派性の陥穽についてはいつも教えているつもりだ。感染症を診ている時に、感染症だけを見ていてはいけない。外科医の出血への恐れ、整形外科医の機能予後へのこだわり、小児の不確実性、、、こうした「他者」へのまなざしが常に伴わねばならない。必要があれば、自らを貶めても他者のまなざしを優先させる覚悟も必要だ。あるものごとにとりくむときは、それよりも大きなスキームから考えるのが大事だ。自分ではなくチームを、チームではなく組織を、組織ではなく病院全体を、病院全体ではなく地域を、地域だけでなく日本全体を、日本だけでなく、他国を。その議論のターゲットからもう一つ大きな立場からものをみ、自らの立場性や党派性をなるたけ排除した時に、ヴィジョンは膨らむ。それは利他的な態度ではない。そうすることで、それはまわりまわって利己となるのだ。利己と利他は不可分の双子のようなものである。「七人の侍」でもっともマイペースと思われる久蔵(宮口清二)がもっとも利他的であり、それゆえにもっともかっこいい。その映画で「他人を守ってこそ自分を守れる。己のことばかり考える奴は、己を滅ぼす奴だ」というセリフが出てくるのも、たぶん偶然ではない。
感染症医は、臨床医として基礎医学者に対して敬意を払うべきだ。診療行為そのものには厳しい態度が必要だが、診療医や医療者に対しては謙虚でなければならない。自分とあわない意見も傾聴しなければならない。持論に党派性を作ってはいけないからだ。傾聴した上で礼儀をもって堂々と反論すればよい。表舞台での反論は無礼な行為ではない。むしろ敬意の反映である。表向き仲よいふりをして、フェイスブックとかで陰口を叩いているよりずっとましである。感染症医の謙虚さは、医師のあり方を家にたとえるとよく分かる。医療におけるスーパースターは外科医である。ぼくはそう思っている(本気で)。命を救うゴッドハンドは家に例えれば客間や玄関だ。プライマリケア医、小児科医、家庭医などは台所や食卓を想起させる。ぼくら感染症屋は家で例えれば便所である。裏舞台で汚いものばかりを扱う所だ(実際、ぼくらが普段取っ組み合っているのは痰とか便とかおしっこである)。ぼくらは、便所である。もちろん、居間が散らかっていても家としては機能するが、便所が汚かったり機能していない時、多くの人は堪え難いだろう。便所のない家、便所が壊れていたり、汚い家は、よい家とは呼べまい。だから、よき便所でありたい。矜恃と謙虚さはこのように同居するものだと僕は思う。
価値観や立場を自覚し、そこから離れてようと挑戦し続けることの大切さを学びました。価値中立的な立場を意識して、大きなスキームで考えることを習慣化してきたいと思います。
本論とは関係ないと思うんですが、“プライマリケア医、小児科医、家庭医などは台所や食卓を想起”されたのはどうしてでしょうか?ちょっと気になったもので、もしよければ教えていただきたく思います。
投稿情報: MSLH1615 | 2011/11/29 12:33