鷲田さんの「「ぐずぐず」の理由」を読んでいる。チャリティーシンポでもキーワードとなっていた「ぐずぐず」であるが、このオノマトペを詳しく洞察した本書から学ぶことは本当に多い。
『「な」で始まる動詞というのは、なかなかになまめかしい。
たとえば、「舐める」「撫でる」「擦る」「なぞる」「なずむ」というような動詞。皮膚という他者の表面に、遠慮がちに、あるいは執拗に、触れることで、相手の気を惹いたり、相手の官能を探ったり、反応をうかがったりする。だれかの身体に触れるというのは、物体に触れることとは異なって、相手の身体のなかに、あるいはその官能のなかに、あるざわめきを発生させようとするものである。
相手には、わたしが触れるその客体であるだけでなく、わたしに触れる主体になってもらわなければこまるのだ。』
(前掲書より)
相手の主体を誘うかのような艶めいた、微妙な動き。九鬼周造の「いき」の一要素である「なよなよ」。
『 身体の中で最もエロティックなのは衣服が口を空けているところではなかろうか。・・・精神分析が的確にいっているように、エロティックなのは間歇である。二つの衣服(パンタロンとセーター)、二つの縁(半ば開いた肌着、手袋と袖)の間にちらちら見える肌の間歇。誘惑的なのはこのちらちら見えることそれ自体である。更にいいかえれば、出現ー消滅の演出である。』
ロラン・バルト「テクストの快楽」沢崎浩平訳 前掲書の引用より
性教育に携わっている人を見ていて、ちょっと引っかかってしまうのは「明示」ということにあまりにも過度にこだわっていることが観察される点である。性は、本質的に内在的に淫靡なものである。また、淫靡なものが消失した性などなんの魅力もない。ぼくらは衣服の陰からちらりと見える肌にドキドキする。裸体が、河岸のマグロのようにゴロリと横たわっていても何の感興も得ない。それは、アクチュアルにもメタフォリカルにもたんなる「マグロ」である。
「寝た子を起こすな」「ちゃんと正しい知識を教えなければ」という性教育にまつわる二元論は、本質的に淫靡な性を語る言葉ではないとぼくは思う。このような二元論、顕示か隠蔽か、という二元論で語らないような語り方で性を語りたいとぼくはいつも思っている。衣服の陰からちらりと見える肌にその本質(の一部)があるように。コンドームや生殖のしくみをばっちりはっきり見せれば教育だ、、、という明示へのこだわりは、「いき」の微妙な機微、ひだを若干見逃しているのではないかと感じる。むしろ学生のまえで微妙な質問に口ごもるのが、まっとうな性教育のふるまいであるような気すらする。
エイズ・HIV感染の診断をし、かの患者にパートナーがいれば、告知をお願いするのが医療者の責務である。しかし、すんなり告知できない人も多い。大切な人「だからこそ」言えないのである。これは、正しい、正しくないの二元論的問題ではない。その機微はDHHSのガイドラインを読んでも分からない。
数ヶ月、パートナーへの告知をためらい続ける患者がいた。ぼくは外来に彼が来るたび、さりげなくこの話題を持ち出して、パートナーへの告知を促す。アメリカの場合は簡単で、このようなときの告知システムは完備されている。システムが通知を行う。しかし、システムはパートナーの、恋愛の機微を担保しない。日本では粘り強く、患者が外来からドロップアウトしたりしないよう、慎重な綱渡りをしながら告知を促す。非常に精神的に消耗するタフな外来だ。
先日、この患者がついにパートナーに告知し、検査をすすめたとぼくに告げた。ぼくは喜び、ついうっかり笑顔で「それはよいことをしましたね」と口にしてしまった。ちょっと考え、はっと気がついた。「それで、○さんとはどうなりました」「非常に気まずくなって、とても困っています」と患者が言う。
患者にとって、告げない苦しみはある。しかし、告げたあとも苦しみが続くこともある。告げた後にもっと苦しむことがある。これはやってみないと分からない。どちらの苦しみが大きいか。医療者は方便として「嘘をつきつづけるのはつらいですよ」というけれど(ぼくも言うけれど)、これはあくまで方便に過ぎない。実際には本当のことを言った後に本当の苦しみが来ることもある。個々人によって、アウトカムには「ずれ」がある。EBM的な分かりやすさはここにはない。
ぼくは、パートナーへの告知という医療者的なアウトカムを達成して満足してしまった。その後患者が被っている苦痛、、、それはぼくが促したゆえの苦痛である、、、にあまりに無頓着だった。いったい何年HIVやってんだ、俺は。こんな素人みたいな失敗を未だにしてしまう。
医療者は、しばしば手前勝手である。自らが設定したアウトカムを達成すると、にやにやと喜んでしまう。俺はまっとうな外来診療をやっているぞと強がってしまう。けれども、設定したアウトカムは患者のそれと「ずれている」ことがある。しかし、その思いを感受せず、自分のアウトカムばかりに固執するとき、医療者のどうしようもない自己満足がかいま見れる。このような自己満足ににやにやしている医療者をぼくはあまり好きではない。だからぼくは今、強烈な自己嫌悪のさなかにある。
もちろん、それは患者がパートナーに告知しなくてもよい、という意味ではない。このような二元論で語ると、問題はとたんに平坦なものになってしまう。二元論は、一種の思考停止である。あちらが正しく、こちらは間違っている、、、あるいはその反対。一般になんとか主義は思考停止である。俺は正しくて、あいつは間違っている。だから、なんとか主義が勃興した20世紀は全体に思考停止の世紀であった。そこでは「それは社会主義だよ」「お前のは修正主義だろ」というレッテルはりでなにかが完了され(たような雰囲気がただよい)、そこで話はおしまいになったのである。アメリカで皆保険の議論になったとき、That's socialism!のひとことで議論が凍ったエピソードを思い出す。
知識は観念である。しかし、ぼくらは観念がしばしば自分の感情の発露、「感」念に転化していることに無自覚である。観念は感念を覆い隠す都合の良いエクスキュースになっていることも多い。たとえば、医療のアウトカムみたいな。
禁煙指導の目的は医療のアウトカムを達成するためにある。しかし、この観念が次第に感念に転化していることをしばしば観察する。そのとき、医療者は喫煙者を嫌悪し、喫煙者を嫌悪し、喫煙擁護者を嫌悪する。口には絶対出さず、それは観念のオブラートに包まれているが、その内部には嫌悪の感念がある。
感念があるのは別にかまわないとぼくは思う。だれにだって好き嫌いはある。ぼくにもある。それはよい。問題は、その「好き嫌い」=感念が観念であると勘違いしてしまうことにある。このことに無自覚になってしまうことにある。しかし、感念に自覚的であり、それを観念と切り離すことは容易ではない。多くの医療者がその「正しさ」のキラメキのために、この誤謬に陥っている。
煙草をやめたときの爽快な感覚。このような患者の体験(あるいはときに自らの体験)をぼくらは紹介する。嬉々として紹介する。しかし、禁煙をギブアップした人物が再びたばこを手にして一服する爽快感は(それがあるのは明確なことだが)「なかったこと」にしてしまう。本当は、両方の感覚に目配りしていき、ぼくら医療者の観念と患者の感念をすりあわせていくのが外来診療の要諦なのに、医療者の感念で患者の感念をむりやり矯正しようとしてしまう。そして、それに成功するとぼくらは嬉々としてしまうのである。もちろん、これも医療のアウトカムが是か否かという二元論で語ると、とたんに議論は平坦な空虚なものになる。
ぼくが禁煙指導を続けつつ、禁煙主義に懐疑的なのは、、、一見矛盾しているが、実際には十全に整合性がとれている、、、、ぼくの大切にしている人たちの何人かが喫煙者であるからである。それは要素である。が、要素を全体と転化し、ぼくの大切にしている人たちを攻撃する態度に対して、ぼくはディフェンスしようと試みる。大切な人はディフェンスする。決して逃げてはならないと思う。いじめを看過するのは、いじめへの参加と同義だから。喫煙と喫煙者は分離すると人はいうが、実際にそれを行うのは非常に困難である。観念はそうさせるが、感念はそうはいかない。人は自分の感念にはあまり自覚的ではない。とても自覚的ではない。観念のオブラートに包み込み、「正論」を主張するとき、、、それは昨今の原発・放射線問題でますますかまびすしくなっているけれども、、、、その二元論的な議論はとてもとても平坦になる。
二元論的な結論を早急に出さない。ぐずぐずする。鷲田さんの本からは、そのような言葉の機微、、、細かい言葉の機微がとても巧みに伝わってくる。
言語化も大事である。でも、口ごもることもわりと大事である。観念から自由になり、「感念」に自覚的であり、明示、説明責任、、、、ぎすぎすした(これもオノマトペ)明示主義でもなく、旧来の隠蔽主義でもなく、その行間をしなやかに微妙に、ぐずぐずと、びくびくと、それでも顔を上げて立ち止まってみたい。
『疲れは、言葉あそびではなしに、何かに憑かれることからたまってくる。身体が憑かれるのは、これまた奇を衒うのではなく、「観念」に、である。しなければならない、こうあらねばならないといった、規範としてはたらく「観念」に、である。ひとは、「精進」や「努力」、「禁欲」や「節制」、「健康」や「衛生」といった社会的規範に憑かれ、それらに何重にも縛られているだけでなく、「快楽」や「美」や「若さ」といった、うっとりするような幻想に煽られもしている。ダイエット、フィットネス、ジョギング、美容整形、気功、ダンスセラピー、ピアシング、自傷行為、摂食障害、接触不安、清潔シンドローム、メタボリック症候群・・・といった流行語や社会現象は、身体がこうした「観念」に縛られ、がちがちに凝り固まってしまうところから発生する。身体をほどくというのは、じつはこうした「観念」の縛りから身を解き放つということでもあるのだ。』
(前掲書より)
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