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2011/04/21

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米国で研修して帰国すると”米国ではこういったときどうなんですか”と聞かれることがあります。私はここにいつも違和感を覚えてしまうのです。私の米国での経験は米国の中西部のとある大学病院でのプラクティスを反映したものであり、米国感染症医療のすべてを反映したものではないのです。だいたい米国の感染症診療をひとつに表現することはできないのです。ですから米国での私の経験ではという話に置き換えて話をするとあまり角もたたず良い感じに終わります。アメリカか日本という2つの切り口での話しにはある種の”無意味さ”を感じます。この切り口にとどまり、お互いの否定と感情的な対決を繰り返す医師は一部の米国で研修をしてきた医師だけでなく、一部の日本だけで研修をした医師にも見られると思います。
感染症診療において私は米国で1960年代にトレーニングを受けた一人の老指導医の影響を強く受けました。彼のプラクティスがお手本でした。自分の患者からでた病理はすべて見に行き、わからない写真は必ず放射線科医とのディスカッションし、患者へのユーモアを忘れずに、毎日の患者の変化を触って確認する姿です。圧倒的な知識と経験を備えたすばらしい医師でした。
ちなみに帰国してからのわたしの日本での感染症医療は米国でのそれと違います。米国にいたときよりもっと一人の患者をよくみて、より長く患者をフォローするようになりました。診断されているコンサルト症例が多い米国よりも診断のついていないものを診ることも多く、より診断に貪欲です。もっと主治医と話し、主治医とは比較的ドライな関係であった米国でのコンサルト業務のそれと違います。まあ抗菌薬の選択は(自分なりに)論理的であれど、米国で研修したためか、もしかしたら少し余計に広域の抗菌薬を使うこともあるかも知れませんが、まあ許容範囲と思います。僕の感染症診療もより今の勤務する病院に少しずつあったものになっていけばと思います。
ただ僕は感染症診療の中で一部日本独自の形にアレンジしにくいものがあると思います。病院での感染対策などがその一例です。感染対策のように、ガイドラインのような”スタンダード” に従って行うプラクティスにはあまり”遊び”がないからです。そして日本の経済状況、日本人の知識レベル、マスコミの影響、現在の日本の耐性菌などが多い状況などを考慮すれば、日本の感染対策はおおよそ欧米のそれに似たものにしていくことが否応なしにもとめられていくのではないかと思います。実際この分野の日本でのガイダンス、指針はほぼ欧米から出ているものを参考にしている印象です。もちろんこの分野でも血液培養を取りましょうのような、普遍的な(例えば手指消毒をしましょう、耐性菌には接触感染対策しましょう)無関係に適応できる概念は存在します。ただこのような分野には咀嚼せずにただ飲み込まなくてはならない事項が多く、そこに人は違和感を感じてしまうのかも知れません。 本田仁

岩田先生

記事を書いていらっしゃるのは学生さんではなく、今は医師として働いていらっしゃるようですよ。まだお若いんでしょうね。

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