日経メディカルオンラインで、アメリカの医学校に通う(訂正、、通っていた)日本人医師の日本医療体験記が載っている。
まあ、これについて僕はノーコメント。こういう文章は褒めたり貶したりという「評論」をするのではなくただただ読むだけにしておくのがマナーだと思う。
「他者」「他国」を語る方法については、「ケニアのスラムで高血圧を治さない」でまとめている。他者を語るのは、本質的にバイアスを断ち切れないので難しい。若い人は若い人で、年をとったらそれはそれで、陥りがちなピットフォールがあるから、要注意だ。
感染症についても、未だに「日本の感染症」と「アメリカの感染症」という切り口から議論されることがある。そろそろ、飽きませんか?こういうのは。というわけで、今書いている本の原稿一部抜粋です。ご覧いただければ幸いです。
アメリカ流か、否かの問題
僕はアメリカで感染症のトレーニングを受けたおかげで(せいで?)「アメリカ流」の感染症医だと考えられることがあります。まあ、こういうレッテルを貼りたがるのは本人に会ったこともないような人たちのことが多いんですけどね。
アメリカの医療は、そして感染症診療は優れていて日本のそれは劣っているのだから、かの地の医療スタイルを導入すべきだ、という主張があります。他方、ここは日本なのだから、アメリカ流ではなく、我が国独自の文化や社会のあり方や、民族性を考慮に入れた方がよい、という意見もあります。
僕は、「ここは日本なのだから、日本独自のやり方」を貫いたほうがよいと思います。
さて、その「日本のやり方」とは何か?それは海外のよいものを積極的に取り入れて、それを自分たちの風土や文化や習慣にフィットするようにアレンジして、そして応用するやり方です。それこそが「我が国」のやり方そのものではないでしょうか。音楽も、映画も、小説も、ビジネスも、学問も、みんなそのように成り立っているのが「我が国のやり方」です。日本人が憧れる日本人ナンバーワン(?)の坂本龍馬だって、国のあり方のモデルとして一般人でも大統領になれるというアメリカ合衆国を参考にしていたそうです(まあ、本当に「一般人」ではアメリカ大統領にはなれませんが、世襲制でないという意味で)。
これが、我々日本人独自のやり方です。内田樹さんのいうところの「辺境」人としての生き方です。
マンガやアニメは日本のオリジナルじゃないか、という反論もあるかもしれません。しかし、手塚治虫がディズニーから多大な影響を受けていることは良く知られていますし、彼のストーリーマンガにはハリウッド映画の画面構成がしばしば援用されています。そして手塚治虫から直接、間接的に全く影響を受けていない日本の漫画家はとても少ないのです。
宮崎駿のアニメも外国作品の影響を受けています。有名なのはフランスの「やぶにらみの暴君」(ポール・グリモー監督 1952年)ですね。これを観ると、あの名作「ルパン三世カリオストロの城」もこの映画からの影響がとても強いことにすぐ気がつきます。荒木飛呂彦の名作、「ジョジョの奇妙な冒険」のストーリーの多くはハリウッド映画の露骨なパクリです。「激突!」とか、「ミザリー」とか。オードリー・ヘップバーンの「ローマの休日」をパクった作品は数知れず。「パタリロ!」でも「からくりサーカス」、そうそう、桂文珍の「老婆の休日」もありましたね。
僕はそれがいけないと言っているのではありません。他者の作品から強烈な影響を受け、それをエネルギーにして優れたものを作るのは、日本人の「やり方」としてとてもフィットしているのです。もちろん、ジョージ・ルーカスの「スター・ウォーズ」は黒澤明の影響を受けていますし、こういう「オリジナルのアレンジ」が完全に日本だけの現象とはいえないでしょう。ただ、傾向として日本人は「辺境人」として他者のまなざしに影響を受け、これを糧に自身にフィットする何を醸造する方法に慣れているのです。まあ、これを「パクリ」と呼ぶか「オマージュ」と呼ぶかは恣意性の為せる業ですしね。「発酵」と「腐敗」の違いが、人間の恣意性にしか存在しないように。
というわけで、アメリカ(その他どこの国でもいいですが)のやり方を頑なに無視し、自分の土地の中にある概念「だけ」で勝負しようという発想は、それこそ「日本的」ではない。むしろ、海外にある良いものはどん欲に取り入れ、それを咀嚼し、自分たちの風土や文化や習慣にフィットするようにアレンジして上手に使いこなすこと、これこそが日本人的なものの考え方ではないでしょうか。
日本の感染症医の多くがグラム染色を重要視しますが、現在のアメリカではこのプラクティスはーーー少なくとも医師の間ではーーーほぼ消滅しています。それは制度的な理由もあるでしょうし、「エビデンス」的な理由もあるでしょう。1970年代から80年代、、、アメリカでまだグラム染色が医師によって行われていた時代のプラクティスを、喜舎場朝和先生や青木眞先生たちが日本に紹介しました。この安価でレイバー・インテンシブなプラクティスは、安価で(!)勤勉な日本の医師によくフィットしています。このことを僕は「ガラパゴス化」と呼んでアメリカの感染症専門誌に紹介したのですが9、その後日本の状況を表象する言葉として「ガラパゴス化」と言われるようになったのは、なんか奇妙な偶然を感じました。
感染症というのはローカルな要素、その地域の要素の影響を強く受けています。アメリカではバンコマイシン耐性腸球菌(VRE)や薬剤耐性アシネトバクターは比較的多く見られますが、日本ではあまり見られません。そのアメリカや日本ではとても多いMRSAはオランダではほとんど存在しません。住んでいる地域、医療環境によっても細菌の感受性パターンは異なります。微生物の地域性もあります。日本に多いアニサキス症は日本の食生活を反映した疾患で、生魚をあまり食べない諸外国ではまれな感染症です。日本でマラリアを見ることはまれですが、世界的には毎年何億という患者がこの疾患を発症し、毎年100万人以上の患者が死んでいます。感染症のあり方は各国で千差万別なのです。
オランダは、世界で一番耐性菌の少ない感染症の優等国ですが、ここでやっている医療、、、それはほとんどの細菌感染症をペニシリンのような境域スペクトラムの抗菌薬で治療するのですが、、、をアメリカに「いきなり」持ち込んだら、たくさんの患者が耐性菌による感染症で死亡してしまうでしょう。アメリカの医療、、、それは広域スペクトラムの抗菌薬を「がんがん」使う医療ですが、、、、を直接オランダに持ち込んだら、オランダは耐性菌だらけになってしまうでしょう。自分の住む土地のあり方を理解せずに直接コピー・アンド・ペーストするだけでは、上手な感染症診療とはならないのです。
アメリカで起きている感染症と日本で起きている感染症は「名前」は同じでも異なる現象を指していることもあります。たとえば、「院内肺炎」(hospital acquired pneumonia, HAP)。おそらくは、日本における院内肺炎とアメリカにおけるHAPは別の現象を指しています。アメリカでは非常に入院期間が短く、いわゆる社会的入院はほとんど皆無で、そのため入院している患者さんは相対的に重症な患者さんばかりです。肺炎を起こしている患者の多くはすでに気管内挿管されており、事実上人工呼吸器関連肺炎、ventilator associated pneumonia, VAPと同義になっています。ところが、日本における「院内肺炎」の大多数はVAPではなく、また予後も良いのです。アメリカの院内肺炎ガイドラインでは非常に広域な抗菌薬をがんがん使うよう推奨されていますが10、日本にそれを適用してしまうと「使いすぎ」になってしまうかもしれません。
とはいえ、日本で良く行われているように、「CRPが高いから、とりあえず抗生物質使っておいて」という習慣が許容されて良い根拠は、僕は乏しいと思います。きちんと診断をつける努力をしましょうね、、、これは十分に日本でもフィットする概念なのではないでしょうか。菌血症の懸念があれば、血液培養をしっかり取りましょうね。こういうのも、感染症のバックグラウンドとか我が国独自の文化、風土とは無関係に適応できる概念でしょう。「ここは日本だ」を免罪符にして質を高めない言い訳にしてはいけないのです。「アメリカでやっていること」イコール、それを否定し、拒否しなければならない概念と決めつける根拠はどこにもありません(ていうか、それってあまり日本人的じゃないし)。
米国で研修して帰国すると”米国ではこういったときどうなんですか”と聞かれることがあります。私はここにいつも違和感を覚えてしまうのです。私の米国での経験は米国の中西部のとある大学病院でのプラクティスを反映したものであり、米国感染症医療のすべてを反映したものではないのです。だいたい米国の感染症診療をひとつに表現することはできないのです。ですから米国での私の経験ではという話に置き換えて話をするとあまり角もたたず良い感じに終わります。アメリカか日本という2つの切り口での話しにはある種の”無意味さ”を感じます。この切り口にとどまり、お互いの否定と感情的な対決を繰り返す医師は一部の米国で研修をしてきた医師だけでなく、一部の日本だけで研修をした医師にも見られると思います。
感染症診療において私は米国で1960年代にトレーニングを受けた一人の老指導医の影響を強く受けました。彼のプラクティスがお手本でした。自分の患者からでた病理はすべて見に行き、わからない写真は必ず放射線科医とのディスカッションし、患者へのユーモアを忘れずに、毎日の患者の変化を触って確認する姿です。圧倒的な知識と経験を備えたすばらしい医師でした。
ちなみに帰国してからのわたしの日本での感染症医療は米国でのそれと違います。米国にいたときよりもっと一人の患者をよくみて、より長く患者をフォローするようになりました。診断されているコンサルト症例が多い米国よりも診断のついていないものを診ることも多く、より診断に貪欲です。もっと主治医と話し、主治医とは比較的ドライな関係であった米国でのコンサルト業務のそれと違います。まあ抗菌薬の選択は(自分なりに)論理的であれど、米国で研修したためか、もしかしたら少し余計に広域の抗菌薬を使うこともあるかも知れませんが、まあ許容範囲と思います。僕の感染症診療もより今の勤務する病院に少しずつあったものになっていけばと思います。
ただ僕は感染症診療の中で一部日本独自の形にアレンジしにくいものがあると思います。病院での感染対策などがその一例です。感染対策のように、ガイドラインのような”スタンダード” に従って行うプラクティスにはあまり”遊び”がないからです。そして日本の経済状況、日本人の知識レベル、マスコミの影響、現在の日本の耐性菌などが多い状況などを考慮すれば、日本の感染対策はおおよそ欧米のそれに似たものにしていくことが否応なしにもとめられていくのではないかと思います。実際この分野の日本でのガイダンス、指針はほぼ欧米から出ているものを参考にしている印象です。もちろんこの分野でも血液培養を取りましょうのような、普遍的な(例えば手指消毒をしましょう、耐性菌には接触感染対策しましょう)無関係に適応できる概念は存在します。ただこのような分野には咀嚼せずにただ飲み込まなくてはならない事項が多く、そこに人は違和感を感じてしまうのかも知れません。 本田仁
投稿情報: User101331 | 2011/04/21 22:28
岩田先生
記事を書いていらっしゃるのは学生さんではなく、今は医師として働いていらっしゃるようですよ。まだお若いんでしょうね。
投稿情報: Id_conference | 2011/04/21 10:14