部屋とワイシャツと私、みたいなタイトルになっちゃった。
西條剛央さんから、被災地でノロウイルス感染症が流行しているとき、そこに支援に行けるか、という質問を受けた。
行ける、と僕は回答する。
ノロウイルスは水や食物などを介して、「触る」ことで手から他者に感染する。これを接触感染という。このパターンでの感染が、ノロではほとんどだ。もし、支援が「医療や介護」が目的でないのなら、ウイルスを排泄している患者に触れなければ、リスクはかなり小さい。無症状でウイルスを有している潜伏期にあるものもいるかもしれないが、彼らから感染するリスクは相対的にはかなり小さい。下痢したり吐いたりしている人に触らなければ、通常の支援はできますよ、というのが僕の回答。
とはいえ、「厳密に言うと」この回答は正しくない。ときに、ノロウイルスは吐物がミスト化して吸い込むことで感染する事例もあるからだ。そういうことを考えるとマスクをつけておけばベターだが、マスクも100%の効果があるわけではない。
なーんてことを言っていると、「支援に行けない」ということになってしまう。リスクをゼロにしようと希求するとプラグマティックな判断ができなくなってしまう。そもそも、余震が続く被災地においてリスクゼロの支援なんてありえないのではないだろうか。「それなりに」安全に支援するしかないのである。
支援者は原則健康なものであると仮定する(なにかあると命にかかわるような方は、現地に行かないほうが良い)。万が一ノロウイルス感染症に健康なものが罹患しても、それはうっとうしい腸炎をもたらすのだが、命にかかわることはない。ノロウイルスが問題になるのは(命にかかわるのは)ちょっとした脱水が致命的になり得る高齢者や基礎疾患を有する人なのである。同じ感染症でも相手によってリスクのインパクトは大きく異なる。
支援者が現地で感染症に罹患するリスクは(インフルエンザを含めて)ゼロではないが、そのリスクのインパクトは相対的に小さい。むしろ心配すべきは逆で、支援者が感染症を有していて現地入りすると、向こうに「人災」をもたらしてしまう。このことは高山先生がしばしば指摘するところだ。事実、2010年1月のハイチの地震後に、ハイチは甚大なコレラのアウトブレイクに悩まされる。2011年3月までに4000人以上の死者を出し、何十万人という患者を発生させたコレラは、国外の支援者が持ち込んだのではないかという懸念がある(それに対する反論もある)。
これが病院内であれば、ノロウイルス対策はもっと厳密な、徹底的なものになる。アウトブレイクを起こしている病棟への面会謝絶が行われることもある。しかし、被災地の支援は、特に食料や水などの基本的なアイテムを欠く場所での支援は、健康なる支援者のノロウイルス感染症の懸念よりも大きいことも多いだろう。このようなとき、僕は意図的に二枚舌を使う。それを「ウソ」と呼ぶことも、できなくはない。
僕は、性教育の授業などでは「エイズにかかるのはとても危険だから、絶対に感染しないよう注意しましょう」と言いつつ、実のエイズ患者には「エイズは治療が進歩して天命を全うできる病気です。悲観せずに前向きにいきましょう」などと言っている。二枚舌である。
感染のリスクは「ある程度」は抑えることが大事である。しかし、とことんまでおさえることには意味が無い。被災地における支援者の感染リスクをゼロにする方法は簡単で「行くな」の一言に尽きる。究極的な、よって非現実的なインフルエンザ対策はワクチンでもタミフルでもマスクでもなく「外出するな」である。
このように「程を考えず」極端なゼロリスクに走るいびつな感染対策は、たいていよくない感染対策なのだが、我々は苦い歴史を持っている。それがかつての「らい予防法」である。感染のリスクは極めて低い、しかしゼロではないこの感染症をcontain(封じ込める)ために、我が国は(そして多くの外国も)極端なゼロリスク対策をしき、その代償として患者とその周辺は取り返しのつかない巨大な損失を被った。この「取り返しのつかない」というのは、文字通りの意味で、そうである。リスクをゼロにしようと徹底しすぎると失敗する典型例である。
僕は想像する。らい予防法を推進した光田健輔は不正義の人ではなかっただろう。おそらくは善意で、健康に害を及ぼすハンセン病を日本から駆逐しようと、純粋な正義感や義侠心にかられて行動したのだと思う。そこに名誉欲や金銭欲が皆無だったかどうかは分からないけど、少なくとも名誉欲や金銭欲だけで医者がドライブされることはそんなに多くない。彼は「正義の人」だったのである。正義感はまっとうなジャッジメントを保証しないだけなのである。自閉症と麻しんワクチンの関係を強固に主張し、論文を捏造したウェークフィールドも、彼の発言を聞く限り、「悪意の人」ではなかったのだろうと僕は想像する。彼はやはり正義感が強く、義侠心にあふれた人だったのだと思う。自閉症の子を持つ親御さんの熱い思いに「俺が応えなくて、誰がやる」と思ったのではないか。もちろん、かれは(虚偽の論文で)ランセットに掲載されたし、麻しんワクチンに関係した弁護士たちからお金をもらっていたのだけど、こういう「営利目的」だけであのような活動はなかなかできるものではない。シーシェパードもそうですね。彼らは非常に手前勝手で幼稚な集団だが、決して単なる金もうけ主義者ではなく、強烈な正義感をバックボーンに活動するのである。こういう「正しい人たち」は、しかしその正しさ(と彼らが認識するもの)のゆえに、極め付けにやっかいなのである。
感染対策は、僕みたいにややうさんくさくて、薄汚れていて、ぼんやりしているくらいの人間がやったほうがうまくいく(こともある)。そんなふうに最近思う。
新生児科医の下風朋章と申します。
最近、私自身が思っていることが絶妙に述べられていて思わずコメントしました。
新生児医療に携わっている人は「良い人」が多いと思っています。
「良い人」には、正義感が備わっていると思います。
日本の新生児医療にスタンダードはないが一様にレベルが高いと、ある外人新生児科医がコメントしていましたが、これは、「良い人」の強い正義感、義務感に支えられている結果と思います。
さて、新生児医療は、集中治療室と言いつつ、集中治療とディベロプメンタルケアが共存した特殊な医療空間です。
赤ちゃん自身は意志を表現出来ず、医療者やご家族が良いと思うことが実施されています。
その中で、医療スタッフが過剰に先鋭化したケアを追求し始めると険悪になります。
医療介入は赤ちゃんに苦痛を与えます。安楽を目指したケアとは対極ですが必要です。
この介入を悪とされると困ります。
その他、NICUでは静粛な環境が求められますが、静粛を追求し過ぎるとベットサイドで研修医への教育は出来ません。
「可愛いね」という普通の発言も出来なくなります。
仕舞いには、静粛を注意しあう秘密警察のようにギスギスしてきます。
>正しさ(と彼らが認識するもの)のゆえに、極め付けにやっかいなのである。
私は、これに加えて、正義感に無意識的な自己実現が重なると厄介さはより強固になると思います。
ただ、こうした人は全くやる気がなくて、無責任な人よりも良いと思っています。(期待を込めて信じたいです)
強烈な正義感に接すると、自分自身は身の丈に合った最大限を目指しながら、
同時に、醒めた自己評価は忘れてはならないと思っています。
投稿情報: Tomoyuki Shimokaze | 2011/04/09 20:17