どんな問いにでも即答できる博覧強記の臨床医,というのが一つの夢だった.英国の作家で詩人のトーマス・ハーディは「すべてについて何かを,何かについてすべてを学ぼうとせよ」と言ったという.僕の座右の銘でもある.
けれど,所詮そんなことは凡人たる自分には不可能な所行である,と悟るのにそんなに長い年月は必要なかった.
PubMedで閲覧できるMEDLINE.1950年以降,1,500万件以上の論文が集積されているという(その中には,日本語の論文など英 語以外のも含まれる).1日10の論文を読んでも全て読むのに4000年以上かかる(名郷直樹『臨床研究のABC』メディカルサイエンス社より).世界で 一番の論文読みであっても,われわれは広がっている知識のほんのひとかけらしか把握していないのである.メフィストフェレスに魂を売ったとしても,「知る こと」の蓄積には限界がある.
医学についてはわからないことのほうがずっとずっと多いのである.例えば,コモンな感染症の診断.例えば,コモンな感染症の治療.こんな日常的なことすら,僕らにはよく理解できていない.これは驚くべきことである.
知っていることばかりを語ってはいけない.むしろ,知らないこと,わからないこと,議論の余地のあること,論争になっていること,決着のついて いないこと,そういうことを僕らはもっと語るべきである.わかっていることとわかっていないことの地平を知るべきである.こういうことはソクラテス・プラ トンの時代からずっと知られていたことなのに,何千年経っても僕らは「知っていること」(あるいは知っているつもりになっていること)ばかりに注目し,失 敗する.
感染症に関係した書物はここ数年で激増した.現在の研修医がもつ知識は,僕らが研修医の頃もっていた知識とは比べものにならないくらいに巨大で ある.僕が研修医になった頃は,まだ青木眞先生の「マニュアル」がなかった.UpToDateもなかった(UpToDateの黎明は1992年だが,その 存在が人口に膾炙するのはずっと後のことである).いや,EBMというコンセプトすらまだ飲み込めず,僕らは些末な計算や数字に翻弄されていた.EBMを 使いこなすというより論文に振り回されていた.そもそも,インターネットがまだ「使える」存在ではなく,僕は沖縄県立中部病院の緑の公衆電話に回線をつな いで電子メールをやっていた.知らないことはあまりに多く,知りたいことはあまりに多く,知識を欲望していた.
今や,知識などはちょっとした工夫とわずかな投資でいくらでも手に入る時代である.しかし,現在僕が熱心に読んでいるのは昔からある,昔の人の 哲学書だったりする.そこには知識の獲得法は書いていない.あなたが知っていると信じているものとは何か,とかいうところがくどくどと書かれている.知識 の地平を知る,知ることを知ることが,今くらい重要な時代はないのである.
本書は,そのために訳されたものである.
http://www.igaku-shoin.co.jp/bookDetail.do?book=81395
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