カリフォルニアの親戚、という言葉がある。患者や毎日のように付き添っている家族とは人間関係をとりやすい。ナースやドクターの悩みや苦悩も分かち合えるから、お互いに「同じ方向を向いて」診療できる。ところが、遠くからたまにしかやってこない親戚は空気が読めず、いきなり対決モード。居丈高になって「おまえら、ちゃんとしてるんだろうな、訴えるぞ!」とがなり立てるのである。
内的な「カリフォルニアの親戚」も恐ろしい。コンサルタントやっていて、毎日患者を診ている担当医は感染症屋が毎日どのように悩みながら薬を調整しているか理解している。目標は主治医もコンサルタントも同じ。患者のウェルネスである。ところが、たまにしかやってこないヤンゴトナキ偉い先生が「なんでこんなことやってるんだ!CRPが高かったらカルバペネムに決まってるじゃないか!おれたちの若い頃は当然そうだったぞ、きーーー!」と居丈高になって、、以下同文。
別に自分の専門領域以外のことで常にカッティングエッジな最新の知識を備えておくべき、と主張しているわけではない。上の立場に立てば毎日あれやこれやで忙しい(研修医の時は「なんで俺ばっかりこんな雑務を、、、」と思っておいでだと思いますが、その思いは年々増しこそすれ減らないのです)。全てにおいて全てを知っているなんて幻想は、もはや抱けない。
自分が研修医の時とはプラクティスもどんどん変わる。ぼくが研修医のころは胸水を抜くときも中心静脈ラインを入れるときも超音波なんて使わなかった最後の世代だ。しかし、「おれたちの若い頃はこうだった」は今もそれを追随する根拠にはなりはしない。
感染症屋は毎日他科の先生の領域外の原疾患と向かい合うから、専門外の患者がどんどん増える。知らない薬や治療法、検査法にも直面する。自分の「常識」がどこまで常識のままで、どこからが今や非常識なのかは、常に検証し続けなければならない。大切なのは、自分の知らないことは知らないこと、と知の境界線をちゃんと引いておくこと。自分の若かりしころの経験なんて、この進歩の早い医学の世界ではなんの原資にもならん。
たまにしか回診しないトップの人たちは、その辺に自覚的になっておく必要がある。回診は自分の叡知を提供する価値ある時間なのか、単にチームを引っかき回して混乱させているだけなのかはよく考えておくべきだ。それでなくても年をとるごとに頭は固くなり、そして周囲はあなたに(面と向かっては)文句を言わなくなるのだから。
こういう困ったクソジ、、、いや、おじさまたちの特徴は、
1.自分の無知に無自覚
2.人の話を聞かない
3.自己の経験に過度に依存する
4.all of the above
さらにひどいのは、患者の利益よりも自己や自己組織の利益を優先させるマリグナントな連中である。かつて感染症の専門家が介入するといけない、という理由で自分の病棟患者が発熱しても「血液培養を禁じていた」シニアのドクターがいたが、こういう患者を苦しめても自己利益を優先させる輩は、医者である資格がない。
神戸大学病院は土地柄のせいか歴史のせいか、よそ者に寛容だし新しいコンセプトにも寛容だ。とてもやりやすい良い病院である。変に歴史が古くてプライドの高いところだと、もっともっと苦労が多いんだろうな。みなさん、ご苦労様です。
私は「東京にいる息子さん」にはかなり留意して対応しています。
特に、医師やマスコミ関係の方、社会的地位のある方は田舎の病院に対して疑念を持つ方がおられるようです。また、せっかく(仕事を休んだ)出向いてきたことに「成果」をもとめられることが多いようです。以前○○○のように見える池袋からきた息子さんに「MRIを直ぐとれ」とすごまれたときには怖かった。(心筋梗塞でステント入れたばかりで放射線に断られたのですが。)初診の外来医がMRIをとると説明したようで息子さんは医療=検査と思っていたようです。以来、迅速に詳細に「東京にいる息子さん」には説明することにしています。先日は感染症をやっておられる医師の方もおられました。場合によってはより「権威のある施設」に紹介していますが。
投稿情報: 樋口じゅん | 2011/02/19 10:41