「海辺のカフカ」を読んでいる。2002年にこの本が出たとき読んでいるから、再読になる。あのとき買ったのか、誰かに借りたのだか覚えていない。しかし、ほとんど記憶に残っていないので通俗的なエンターテイメントとして流してしまったのだと思う。2002年というと僕の中では精神的な転機の年、と自分では思っていたのだが、それでもこの小説がフックするほど言葉についての成熟度が足りなかった、端的に言うと未熟であったとつくづく思う
すごい小説だ。
ちょうど、先週能楽堂で観世流の能を観ており、シンクロニシティーを感じてしまう。清経、三井寺、融と観て、近江の景色の美しさや幽玄というものを想像する。源氏物語や雨月物語の時代の、エジソン以前の、電気のない時代の暗闇の、まだ現(うつつ)と夢、実体と幽体の区別があいまいだった時代を想像する。
そう、2002年の僕は全くと言って良いほど想像力のない人間であった。だから本を読んでも、どんな言葉を耳にしてもそれがうまくフックしない。ちょうど大島さんの言う「うつろな」人間であったのだ。高校生の頃は学校をサボってまで読書にふけっていたのに、あのころは本を読むということがなんなのかさっぱり分かっていなかった。あのときの読書時間は、今から考えると、全くのゼロ、いや余計な衒学がついたことを考えると、マイナスと言っても良い。15歳という時期が何を意味するか、本当はよく分かっていたはずなのに、2002年に「海辺のカフカ」を全く理解できていなかったという事実。
このことを、素晴らしく思う。
どんなうつろな人間であっても、いつかは言葉がフックする想像力を醸造することができるのである。才能やセンスがないと自分を貶め、諦める必要は必ずしもない。むしろ想像力は他者によって得られる属性であり、自分がいくら歯を食いしばって頑張ってもどこがどうということはない。ただただ、他者に自らの全てを委託し、寄り添うこと。言葉を素直に、そのまま受け取ること。自分の頭を使ってよく考えること。ただし、思い込まないこと。仮説を立てること。肯定的な仮説を。自分本位ではないが、肯定的な仮説を。
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