ここでのマスメディアは新聞とテレビ(今の地上波)である。僕は両者はこのまま没落する可能性が高いと思っている。茂木さんの新聞八策は達見だがこれはもうずっと前から提唱されていたことだ。こういうものはだんだん、いわゆるミドルメディアに流れていくことだろう。マスメディアの新聞において、日本でこれが実現しないと言うことは、当の新聞がこういう姿になることを望んでいないからだ。
http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/2010/09/post-6fc1.html
世界的に見ても、発行部数が1000万部以上の新聞などが存在することそのものが奇異なのである。NYタイムズもルモンドも読者を選ぶ。1000万部以上出す新聞が目指すのは、ボトムをターゲットに記事を書く、という話法しかないことだ。しかも、しばしばその見積もりはアンダーエスティメイトである。テレビも新聞も「所詮、俺たちの顧客はこの程度だよ」と舐めているのである。この話法そのものは構造的なものである。したがって、新聞記者がいくら知識を高めたからと言って話法そのものが変ずることはありえない。
しかし、実際には僕らはこの話法に飽きている。
昔は日本全国で共有できる存在があった。例えば、歌謡曲である。「ベストテン」や「紅白歌合戦」が高い視聴率(これも定型的な価値観だが)を保てたのも、日本に歌謡曲があり、それが共有できたからだ。天声人語は「入試に出る」正しい文章と僕らは学校で教わった。
しかし、このような言説に僕らはもう納得できなくなっている。各自各様の価値観や世界観をすべて統合して新聞、テレビとすることが不可能になっているのである。その多様性の幅の中で定型的な話法はどんどん陳腐になっていく。
そこで、取材には必ず応じなければならないとか、新聞にコメントを出さねばならないという義理はどこに生じるのだろう。わずかなスペースに15分の話を「ひとこと」まとめ込んでしまうと、それは断定口調、糾弾口調にならざるを得ない。「○○はけしからん」となりがちである。これは知識の多寡の問題と言うより構造問題なのだ。テレビ番組のコメンテーターも同様である。
しかし、大抵の事象は複雑で、断定できないことが多い。断定できないことを断定してしまうから無理が生じる。だから、僕は基本的に新聞やテレビの取材はお断りしているのだ。もちろん、このからくりに自覚的な方もおいでだから、例外は常に設けているが(こないだパピローマで毎日放送に出ました)。あと、ミドルメディアも例外となることもあるが。
僕はだから、歴史的役割を終えた「マス」メディアにはしずしずとゆっくりと退場いただくのが正しいあり方だと思っている。だから、バッシングではなく、パッシングなのだ。取材に応じるのはクライシス時のタイムマネジメントでいうと、そのプロダクツのプアなことを考えると、どう考えても合理的な行為とは言えない。むろん、そこにあるものは当然あるものという「現在の常識」から見ると僕の見解は定型的な正しさも政治的な正しさも持っていない。暴論にしか聞こえないだろうが、まあそれはそれでかまわない。
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。