予防接種の効果について露骨に反論する人は日本ではそんなに多くない。海外の方が多いくらいだ。
しかし、先立つものがねえ、という議論になる。金がないからだせない、というのだ。
僕は財政の素人なので素朴な疑問が出てくるが、諸外国で負担できるワクチンの費用がなぜ日本のように相対的にはお金持ちな国でできないのだろうか。金がない、とはよく官僚の口にするところだが、ぜはなぜ他国ではでき、他ならぬ日本では出来ないのか。明快な回答を得たためしがない。
ワクチンのコストについての議論はあまりされないが、皆無ではない。
http://ameblo.jp/keneki/entry-10600382609.html
http://ameblo.jp/keneki/entry-10597907995.html
まあ、公務員をクビにしてワクチン費用を捻出するなんて過度な被害者意識が甚だしいのはおいておいて、僕はこのようなお金の効果について議論することはとても大事なことだと思う。お金の議論を無視してただただ何かを要求するのは現実的ではない。
ただし、計算の仕方にはもう少し工夫が要る。
一般に、医療のコストを評価するときは、一人の命が救われた、だけではなく、「何年の命が救われた」、という点が重要になる。それが小児だったり若い女性の命を奪う病気であれば、その予防効果は、たとえば高齢者の命を救った場合よりも大きな意義を持つ(という考え方もある)。
確かに、子宮頚癌ワクチン接種費用は一人の命を救うのには1300万円かもしれないが、これが「20年分の命を救う」となれば1年の命のコストが65万円となり、40年であれば30万ちょっととなる。これは、高いか、それとも安いか。「数ヶ月の余命」を伸ばすために、僕らはしばしばそれ以上の医療費を使っているのではないだろうか。
同時に、予防接種をしないためのコストも考えたい。子宮頚癌治療のコストはどうか。若い就労可能な女性の労働資源が失われるコストはどうか。そのケアをする旦那さんの失われた労働コストはどうか。彼らにコミットする医療者のコストはどうか(たいていの医療者は実際の医療費以上に働いているんです)。将来出産できるはずだった再生産機能としての女性が失われ、その生まれてくるはずだった子供がもたらすであっただろう労働の対価はどうか。
なによりも、女性に優しく、少子化対策を行うという観点からはどうだろう。国のビジョンにどこまで合致しているだろう。日本はどのような国になりたいのか。単なる金勘定だけではなく、そういう視点も大切である。
最後に心情的には、若い女性のアドバンスドな子宮頚癌の患者をみた医者なら、こんな病気が世の中にあること自体への強い嫌悪の情が当然浮かぶはずだ。
人間は死ぬ。必ず死ぬ。死ぬか、死なないかが問題なのではない(なぜなら僕らはいつか必ず死ぬからだ)。許容できる死かどうかが問題なのである。僕にとって若い女性の子宮頚癌の死亡は許容しがたい死である。たいていの人にとっても、それは同じなのではないだろうか。
同様に、小さい子供が髄膜炎で死ぬことが、許容できるか(それが自分自身の子供だった場合、だ)。あるいは生涯にわたる障害を背負っていくことが、そしてそれが回避可能だったことが既知なことが許容できるか。そのようなことが放置されている国家を僕らは許容できるか。このような問いの立て方が重要になるのである。
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