美しい春の朝の日曜日である。テレビをつけるとこれまた晴天の中、マスターズゴルフをやっている。僕はゴルフできないけれど、観るのは楽しい。およそ、スポーツは何でも観ていて楽しくなる。いま、テレビをつけておもしろいと思うのはスポーツだけなんじゃないか、と思うくらいだ。
さて、自分が本を作るとき、既存の本にないコンセプトを取り入れたいと書いた。me too bookを避けたいからだ。最近、感染症関係の本が多すぎるんじゃないか?とシンプルに感じたりもした。
でも、全体的に考えると、感染症の本が増えるのはよいことである。たとえコンセプトが類似していても、よい。それはポリフォニーの問題である。
まえにどこかで講演をしたとき、「五味先生も以前同じことを言っていました。あれでやっぱり正しかったのですね」とコメントされたことがある。ああ、これだと思った。
一人が正しいことを言ってもそれは奇論でしかない。20年くらい前、もとOCHのK先生が学会で血液培養2セットの必要を説いたとき、「何をいってんだ」的な反応を受けたと聞いたことがある。噂の真偽は分からないが、いかにもありそうな話である。当時の空気がよく伝わる「伝説」である。
同じことをたくさんの人が言う。みんなが言う。これが力を生む。日本でもアメリカでも、ものを動かすのはデータではない。雰囲気である。雰囲気作りには同じことを異なる声が奏でる、ポリフォニーが一番パワーを持っている。
今でも、「ブドウ球菌にはチエナム」みたいな「恥ずかしい本」は売っている。これらの「奇書」の販売を止める能力も権利も僕らにはない。でも、ポリフォニーが奏でる雰囲気で、このような奇書を書く諸兄に、「俺たちこんな恥ずかしいこと書いてちゃ笑われちゃうぜ」と考えなおさせることはできる。異論は論破してはだめだ。人を動かそうと押せば、押し返される。その場から人を動かすには、「くすぐる」のがよいのである。
だから、「似たような本ばかりじゃないか」とシニカルにとらず、斜めに構えず、百花繚乱の感染症本の乱立は喜ぶべきなのである。三鴨先生の本も矢野(五味)先生の本も、実はそんなに内容に違いはない。細かい違いをあげつらうのは簡単だが、ここは折口信夫に倣って別化性能(違いを見つける能力)ではなく、類化性能(類似性を見いだす能力)を高く持った方がよいのだ。中沢新一 「古代から来た未来人 折口信夫」 ちくまプリマー親書、を読んでいてそう思った。
まあ、その一方で、皆がXと言っているときにXというのは簡単である。「王様は裸だ」と看破した先達の作った道のおかげで僕らは楽をしている。そのことには自覚的でなければならない。
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