昨日、患者さんとその家族に謝罪する。言い訳の効かない、完全に当方の手落ちであった。ひたすらに謝り、反省し、改善を約束し、改善を実行し、この苦い教訓をせめて明日への糧にして、成長のチャンスに転じるよりほかない。
さて、気分をあらためて
今朝は少し早起きした。テレビを付けるとバルサ対シュツットガルトの試合をやっている。洗濯したり、アイロンかけながら見る。今はハワイから大リーガーが来ているので朝のカンファはお休み。すこしゆっくり出勤できる。レーマンっていまドイツなの。と思ったら引退なのか、、、、
ツボにはまったバルサは本当に強い。このチームはこうありたい、という選手の、監督の、組織のメッセージが強く伝わってくる。勝つために、良いサッカーをするためには何をしたらよいか、みなが「自分のこと」として一所懸命に考えている。
オシムは言う。「日本人はプレーのためにプレーしている」と。つなぐためにつなぐ。ポゼッションのためのポゼッション、走るための走り。「何のために」という問いに誰も答えられない。何も伝わってこない。結果が出ない。同じ失敗を繰り返す。
日本のダメな組織に普遍的な現象。会議のための会議。議論のための議論。書類のための書類。反論のための反論。嫌がらせのための嫌がらせ。検査のための検査、投薬のための投薬、研究のための研究。権力のための権力。改革のための改革。改革したふり、のための改革したふり。皆、一所懸命にやっているのだけれど、一所懸命にやる、という意味をはき違えている。
「ぼく、ちゃんとやってますよ。ちゃんとまじめに毎日CRP測っています」
みたいなまじめなんだけどダメ研修医と、論理構造が同じ。ダメな組織には普遍的。
ヴィジョンとは、文字通り自分にも他人にも見えるようなものでなければならない。ビハインド・ザ・ドア的な仕事は大事なこともあるし、謀略も全く拒否はしない。ヴィジョン、目的達成のための必要な手段としての謀略ならば。それも「謀略のための謀略」「根回しのための根回し」「腹芸のための腹芸」になってはいけないのだ。
ペップは「良いサッカーとは」「強いチームとは」ということを現役時代から何十年も必死で考えてきたに違いない。2年くらいでローテートするような組織ではヴィジョンが涵養されるはずもない。5年後、10年後には「自分は関係ありません」ではだめなのだ。汚職を防ぐ効果はあるだろうが、それも「汚職防止のための汚職防止」「批判回避のための批判回避」であり、何のために?が欠けている。
しくじりがあったときこそが改革のチャンスだ。理想の病院はまだまだ遠い。やるべきことはまだたくさんある。今のままでよい、という腐った目をしている奴らが、そういう態度で満足している輩が、現状維持の重力に魂を引きずられている連中が、多すぎる。
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