患者に情報を提供するか、否か。
このようなイエス・ノークエスチョンは質問の質としては今ひとつ。
患者に情報を提供しないとすれば、それはどのような条件によるか
こちらのほうが少し成熟した命題。
http://content.nejm.org/cgi/content/full/362/5/380
アメリカでも何が何でもオートノミーバカ、ではなく、このような成熟した議論が行われるようになりました。成長・成熟の証でしょう。
うん、○○は是か非か、というディベート的命題は幼稚な議論のもとになりそうです。○○を容認するとすれば、それはいかなる条件によるか。のほうが成熟した議論を作るでしょうし、対立構造を作りにくい。もし、全ての条件で、ならイエスという見解に変換できるし、全ての条件でノーならその逆でしょう。そして私たちは、いかなる条件でも○○、、、というのがほとんど存在しない事を悟るのです。世の中に例外事項のない存在なんて、ほとんどない。
僕はあらゆるところで言ったり書いたりしていますが「バカ」とは知識の多寡の少ない方、のことではありません。内田樹さんが書くように、
「知的パフォーマンスの向上というのは、「容器の中に詰め込むコンテンツを増やすこと」ではないからである。ぜんぜん違う。」
のです。
バカとは自分が知っている事と知らない事の境界線がよく見えていない事です。自分の知らない事が、分からない。
だから、通常の研修医のチェックリストは間違っているのです。「自分は何ができるようになったか」ではなく、「自分は今多何ができていないか」リストこそが、意味があるのです。できるようになったリストは自分の器が見えません。できないものリストを作れば、自分の地平、自分の器をようやく知る事ができるのです。見るところが完全に間違っているのですね。
日本の不幸は、知とは何かを知の中心地たる(べき)大学や文科省が知らない事にあります。上記の定義で言う「バカ」は実はこの辺では普遍的です。バカでも平気で大学教授とかになってしまう(しかも、定義からして本人はその事実に気づいていない)、このような現実が日本を大変イタタタタな国にしているのです。おまけに、先のブログに書いたように、
たいていの大人は志を失い、魂はどっかに置き忘れ、ひたすら過去の貯金ばかり見せびらかして傲慢で、何か悪い事があると全部「私以外の誰かのせい」。そして眼(まなこ)は濁っています。おまけに品がない。
で、加えてバカ
ということになりますので、これはもう、救いようがないのでした。そういうのと席を同じくして仕事をするのは、もうこれは苦痛以外の何者でもないのですが、不幸にしてそのような機会は必ずしもまれではないのでした。ま、精神修養ですな、これは。
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。