教育の評価はmeasurableでないといけない、とよく言われます。これはイデオロギーであり、事の真理ではありません。イデオロギーもイデオロギーであるが、しかも教育者サイドのイデオロギーです(まあ、アメリカンなイデオロギーです)。こちら(教育者)の都合であちら(ラーナー)の都合を規定しているのです。これも日本の教育界に普遍的な誤謬です。
本当に大事なものは計測不可能です。しかし、測れないから、ほっといてよいというわけではありません。実は、この辺が一番大事なのです。僕が研修医をけっして「評価しない」のもそのためです。文章化してしまうと全ておじゃんになってしまうのです。言葉にしてはいけないことは、言葉にしてはいけない。客観性?客観性より大事なものは、世の中にはたくさんある。
すべてのモデルはイデオロギーなのですが、日本人はモデルを真理と勘違いしがちです。特に舶来もののモデルはそのままドグマ化してしまう。思考停止に陥ってしまう。もともと小児期より「考える」トレーニングを学校教育で受けていない日本人に、これは危険だ。
日本では考えずに覚える、飲み込む、ことが優秀さの証と勘違いされがちです。医療者なんかこのような飲み込みの思考停止パターンが多い。医師もそうですし、ナースはさらにそう。こないだ、内田樹先生と前川幸子先生たちとの鼎談ではこの話が出ました。こんど「看護教育」にでるので、読んでください。
日本では、飲み込んだ量の多さと正確さが優秀さの証で、その最果ての地に、実は霞ヶ関があったりする。でも、大事なのはそのコンテンツの外にあるものなのでした。
だから、教育するときもよく「わかるように言語化しなさい」といわれますが、日本ではもうワンステップ必要です。「僕が教える前に、あんたがどう考えているか言語化してごらん」と促す事です。これができない。そしてこれができるようになると、実はたいていの事は教育者が教えなくても自分で気がつくようになる。1回ぐるっと回って「俺の背中を見て考えろ」というのが大事なのです。これはもちろん昔への回帰ではないです。似て非なるものなのです。簡単に答えを教えてはいけない。人から与えられた答えは表層的で、自分で会得した答えこそが深部に宿るのです。それまで、辛抱強く教育者はほったらかしておく必要があります。慎重に、注意深くほったらかす。
日本の学生や研修医は、どんどんあたまをつかわせなきゃいかん。これは欧米にはない背景がもたらした必然的な方法論です。日露戦争の時、秋山兄弟は陸軍、海軍の使い方を欧米では「非常識」なやりかたで運用したのでした。勝つためにはそれしかなかったからです。彼らは欧米の戦術に無知であった訳ではありません。十分にそれを知り尽くした上で、「勝つためには同じようにやってはダメだ」と察したのでした。秋山兄弟は現在の日本では希有になった「考える事のできる」日本人でした。
形式主義はだめなのです。形式がダメなのではありません。所作は重要で、それは芸というフィールドでみることができます。形式主義=形式ではないのでした。形式主義は思考停止だからダメなので、芸における「形」は考えつくした結果なのです。表現形は似ていても全然違うのでした。
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