人間の自由を奪うものは暴君よりも悪法よりも実に社会の習慣である。
JSミル
プログラム責任者講習会に出ていました。このために厚労省の会議はぶっちです。
全体的には、洗練されたタスクフォースたちの動きにとても感心しました。あれはよほど準備して場数をこなしていないと、ああは行かない。事務の方もとても渋い配慮を見せていました。タイムマネジメントもほとんど完璧でした。制度的には、評価機構JCEPの話が面白かったです。
カリキュラムや評価、メンタリングやコーチングについて、いろいろ考えました。問題は、「できることの提示」ではなく、「できないこと」「困難なこと」の地平を示すことのはずですが、どうしてもこのようなワークショップではできることのオールマイティー性が誇示されがちです。こういうことになっている、という制度説明がなされ、制度やモデルの知識に長けた官僚的にスマートな人が跋扈する仕組みになっています。
EPOCについても、EPOCに「何ができるか」、が本当の問題ではないのです。その(喧伝されるところによると)あたかもオールマイティーに見える仕組みがどうして現場でこんなに忌み嫌われるのか?という分析が大事なのです。エイズ患者のデータベースであったAネットや、某大学病院の電子カルテもまったく同じ構造で間違っています。そう、EPOCは言ってみれば、ウインドウズビスタなのです。世界一のパソコン会社の世界トップレベルの開発者が作ったはずのウインドウズビスタ。その無謬性が喧伝されても、やはりビスタはダメなOSであり、それは素人の僕ですら正当に確定できたのです。マイクロソフトは、その誤謬に気づいただけ、まだましなのですが。
評価のもたらす根源的な問題も問いをたててみたのですが、「モデルによるとこうなっています」という表面的な説明で終わってしまいました。評価は必然的に外的動機づけをもたらすが、それを内的動機づけに変換させる条件あるのか?あるとすればそれは何か?夫婦でformative, summativeな評価は行われず、行うことはできず、また行うべきでもないが、それでもなお夫婦が高まりあっていくという事例があるのは何故か?評価の前提は本当に正しいか?
評価は手段であり、目的ではない。誰もがそういうでしょう。しかし、実質的には、評価は明らかに自己目的化しているのです。
多くのモデルが提唱されます。学術界では新しいモデルが大量生産されるインセンティブがあるからです。そしてその賞味期限はどんどん短くなっています。最新のモデルを追っかけるこの構造そのものがすでに限界なのかもしれません。
すべての行いには瑕疵があり、それに自覚的でなくてはいけません。瑕疵に自覚的なものだけが真にその長所を(逆説的に)もっとも理解するのです。
しかし、多くのWSでは、既存のシステムやモデルの説明と正当化だけが巧妙に行われます。問題点の抽出は都合が悪いので黙殺されます。みなで話し合いましょう、先生はいません、正しい答えはありません。これがWSの基本です。しかし、それらはすべてまやかしで、巧みな出来レースで、実際にはできあがった結論に導かれるだけなのです。KJ法やらプロダクツの作成は汗をかいて一体感を醸造するための演出であり、新しい価値を模索したり「地平」を探すなんてことをやるのはタブーなのです。これが形式こそが本質に優先される日本の教育界の構造です。多様性は本当は希求されず、予定調和こそが求められている全てです。
我々はできることばかりに注目します。内田樹氏が「レヴィナス」で指摘したように、行うべきは「できないこと」に注目することなのですが。
多くの参加者が形式を学び、形式こそが本質であると誤解し、満足して去っていきます。このことが吉報なのか凶報なのかは今のところよく分かりませんが、少なくとも形式がぐるぐる回って自己完結している組織の教育に、「目覚めた人」を生み出す力がないことは間違いないのでした。
さてと、考えが煮詰まってきました。こういうときは、簡単な料理を作って、ワインの香りを楽しんで、大切なものを取り戻すだけです。それだけ。
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