選挙が終わりました。
さて、この結果は今の日本の政治に国民が完全な、ノーを突きつけたということを意味しています。しかし、これは自民党(だけ)に対するノーでしょうか。そういう部分もあるでしょう。でも、僕たちは日本の政治を回しているのは実際には霞ヶ関の官僚であることを知っています。だから、これは間接的には霞ヶ関に対する国民のノーなのだと解釈すべきなのでしょう。文科省、外務省、農水省、国交省、そして厚労省、、、こうした官僚たちに国民がノーと言ったのです。選挙でvetoを出せるのは政治家と最高裁判官だけだから、そのように直裁に言えなかっただけの話なのです。実際に審判を受けたのは霞ヶ関なのです。
このことに、霞ヶ関の官僚たちは自覚的であるべきです。
何度もいろいろなところで書いていますが、日本の官僚は決して無能ではありません。外国に暮らせば分かりますが、諸外国の役人は本当に困る。能力が低く、ミスが多く、仕事が遅く、ふまじめでやる気がなく、そして金に汚い。相対的には日本の役人ほど有能で正確で真摯でそして清潔な官僚を外国に見ることはほとんどないのです。
では、何が問題なのか。霞ヶ関には二つの「死に至る病」が流行しているのです。これは、罹患率が極めて高い恐ろしい病です。最初はこんなでなかった彼らも霞ヶ関に行って数年経つと、ほぼ必発でこの病に罹患してしまうのです。
ひとつは、抱え込みの病。「おれがやらなきゃ、誰がやる」と妙に自意識過剰になって、他人に委託、任せることができません。例えば、今回の新型インフルエンザでも学会や民間に委託すればよいプランがたくさんあったのです。しかし、「おれがやらなきゃ」の意識が強すぎて他人の力を借りることができないために、徹夜の連続で無理をする。パブコメも募集するけど、「いろいろな人の意見を聞きましたよ」というアリバイ作りのためで、実際には活かされない。現場のことが分からないのに現場のあり方を無理矢理に規定するから、無茶なプランができる。「こんなことできるか」と現場から怨嗟の声が起きる。そして、「俺たちの苦労を何も分かっちゃくれない」と引きこもる。このような誤謬を繰り返してきました。まるで能力は高いんだけど持ちすぎてしまう、パスのできないサッカー選手みたいに。デビューしたてのCロナウド。彼が、当時その能力の高さにもかかわらず評価が低かったのは、やたら意味のないフェイントやドリブルを繰り返して、結局チームのために役立っていなかったからなのでした。
もう一つの病は、無謬性依存症です。自分たちは絶対に、絶対に、絶対に間違っていない。間違っているのは、俺以外の誰か、という論法です。これも霞ヶ関固有の慢性疾患。今回の新型インフルエンザについても、5月、6月までの行動で個人レベル、病院レベル、市や県のレベルでたくさんの反省や改善点がまとめられつつあります。でも、僕はいままで、「○年の行政はこことこことここがよくなく、実際にはこうするべきであった。ごめんなさい。反省してこう直します」と謝罪、反省、改善を明言した厚労官僚を一人も知りません。新型インフル対策でも、局長、課長クラス以下、反省の弁を聞いたことがない。そして、「あれは政治家のだれそれがバカだから、財務省が金をくれないから、地方行政がだめだから、医者がだめだから、国民がアホだから」と「私以外の誰か」のせいにし、自分たちの絶対無謬を主張するのです。
絶対無謬を主張した瞬間、その人の没落が始まります。そのことを看破したのが、フロイトの理論を批判したカール・ポパーであり、マルクス主義やフェミニズムを批判した内田樹でありました。「勝ち誇った瞬間、そいつは敗北している」といったのはジョセフ・ジョースター。絶対無謬に依存した精神からは、敗北しか生まれないのです。
それが、今回の選挙だったと僕は思います。麻生首相たちだけをスケープゴートにしてしまうと、今回の選挙の意味は分からないんじゃないでしょうか。実際にはこのメッセージは前の選挙、自民党が圧勝したときの選挙でも出されていたのではないでしょうか。だから、表現形は逆になりましたが、前の選挙も今回の選挙も、国民は同じことを言っていたのではないかと思います。それは、「今の政治はだめだ、変えてくれ」というメッセージです。
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