今度、某日某所で行われる指導医養成ワークショップの話題をまとめてみました。
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先日、うちの職員と話をしていて面白い発見をしました。彼女は阪神大震災を体験して、大変な思いをしましたが、それ以来「ちょっとの揺れ」でも敏感に反応してしまうのだそうです。ところが、彼女の弟は全く逆で、「あれだけ大きな揺れを経験したのだから」ちょっとやそっとの揺れでは全然動じなくなってしまったのだとか。
このように、全く同じ体験をしてもとらえ方は完全に逆になってしまうことはあるのですね。講演後のアンケートを採っても、同じ内容なのに「テンポがよくてよかった」「早すぎてもっとゆっくりしゃべってほしかった」と逆の感想が返ってくることがあります。
「医学教育」の教科書は、一義的に「こういうことを言うと研修医はこう感じるから止めた方がよい」的なアドバイスが多いですが、眉につばをつけて聞いた方がいいんじゃないか、と思います。
例えば、指導医が権威的な態度を取っていると、研修医も権威的になる可能性があります、、、、という記述をある医学教育の教科書で見つけたことがあります。しかし、それはおそらくは、定量的な心理学的研究から得られた「傾向」に過ぎず、全ての研修医がそのような感じ方をするとは限りません。たぶん、「ああはなりたくないな」と権威に対して嫌悪感を抱く研修医も少なからずいるのではないでしょうか。なんとならば、反権威的な感情は、権威の中でこそ生まれてくるからなのです。
専門家は、しばしば定量的な心理研究を(それもかなり限定された条件下での、ですが)ものすごく引き延ばして一般化し、教科書化しますが、それには要注意です。そのような仮想空間で作り出された「エビデンス」は現場の空気に全く合致していない、要するにapplicableではない、ことが多いのです。
しばしば引き合いに出す例は、「叱り」と「虐待」の違いです。欧米の教育専門家は、「虐待にあった子どもは自らが虐待者になりやすい(そういう「傾向」がある)。だから、叱るのはよくない」とよく考えると全然論理的でない台詞を平気で口にします。この文章が論理的、原理的に間違っているのは明らかです(つまり、主義主張、意見の違いとは関係なく間違っている)から、興味のある人はなぜそうなのか、構造的に検討してみてください。
もちろん、このことから、研修医は叱りとばしていればいいのだ、という結論にはなりません。問題は、叱るか叱らないか、ではなく、「いつ」「どのように」叱るべきか、という観点です。つまり、目的・アウトカムに準拠して、目の前のあるキャラクターの研修医のある感情的、体力的状態を鑑みて、どう接すればいいのか、という微妙な対応となります。その状態によっては論理的な言及が有効ですし、感情的なサポートが有効ですし、叱咤激励が有効ですし、黙って見守ることこそが有効なのかもしれません。いずれにしても、どの方法がベター、というのではなくて、いつ、どの手段をとるのが、が大事になります。
コーチングではペーシング、というスキルを使いますが、上記のような教育のしかたも一種のペーシングといえましょう。相手のあり方に合わせてこちらの教育方法や態度も変えていき、ゴールを見据えていくという部分においては。
医療の世界においては絶対善や絶対悪が存在しにくく、その意志決定や振る舞い方の是非も賛否両論で、時代においてもどんどん変わっていきます。キャラクターも大事で許される行為と許されない行為は、その人のキャラによって決まってくるところもあります(許されるキャラっていますよね)。だから、キャラというのはとても大事なのですが、そのくせ教育の世界では「人格攻撃をしてはならない」と教条的にのたまいます。もちろん、人格を攻撃するのは御法度ですが、しかし人格≒キャラのもたらす意味は、医師という仕事の中では大きいものなのです。そこを無視して「キャラにはタッチせず」の態度を決め込むのは、あまりにも実態からかけ離れているのではないでしょうか。キャラは否定してはならないですが、キャラへの働きかけはむしろ必然です。だってそこに厳然としてあるものなのですから。
所詮、指導医が研修医にできることは限られています。幻想や伝説、えせ科学とはおさらばして、しなやかに柔軟に、程よい熱意を持って考え直してみる必要がありそうです。
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